はいっ坊主

坊主が気まぐれに日々のご縁をしるします

1/3は鳥にやり、もう1/3は虫にやる

 今回の記事のタイトルにした言葉は、連れ合いの母、私の義母から聞かせて頂いた言葉です。

義母によれば、「この辺では昔の人はそういってた」との事で、畑で農作物を作ってもそれを全て人間が食べるわけではなく、

「1/3は鳥にやる。もう1/3は虫にやる。残りの1/3を人が食べる」

と聞かされたのだそうだ。

 

 畑をしない人には、テレビ等で芸能人の人達が畑に取り組む映像を見て、なんだか楽しそうといった思いを持ったりする事もあるでしょうが、実際に畑を人の手で耕し、土を作り、畝を作り、種や苗を植えて、毎日水を遣り、抜いても抜いてもいつのまにか生えてくる雑草を相手にするのはかなりの重労働です。うちでも小さいながらも畑があり、毎年耕しては野菜を育てております。ですから、重労働であることは知っておりますが、「知っているだけに尚更」、この言葉が重く響きました。

 

 この言葉を味わいますと、そこには自然の摂理、循環を理解していたかのような印象を受けます。鳥が食べる事によって、土壌への貢献、物によっては種子の運搬が行われます。虫が食べる事によって、土壌を豊かにしたり、病気の葉を食べてもらったり受粉への貢献が行われます。

 そして、鳥や虫は「それが食べ物だから食べる」と言う本能に素直に生きているにすぎません。ですから、野菜や果物だけではなく、森の木々や道端の植物も虫に食べられますし、人間が食べないような山の実を食べる鳥もおります。

ただ人間だけが「ここは私の土地で、私が作った野菜や果物は私のもの。収穫が減るのも気に食わなければ、自分にとって利のない鳥や虫には一粒たりともやりたくないし、食べる時に虫食い部分を取り除く手間もかけたくない」という欲な考えを持つのです。

 

 実際には、鳥や虫がいる恩恵を受けなければ作物は作れないのです。しかし小学校の理科で私達はそれを「常識」レベルの知識として学んでいるにも関わらずただの「害」という目で見ます。植物が鳥や昆虫をさそい、おしべに触れて付着した花粉によって受粉して実になる。その恩恵を受けながら、「鳥や虫への悪口を言い」、「追い払う研究をし」、「薬等を使い殺す」のです。

現在の人の多くはあまりに恩知らずで強欲な行為をしながら、感謝どころか、「畑に害なす鳥や虫め!」と怒りの感情を持って、悪い事をしているとは思いません。

 

 しかし、昔の人は恩恵を知り「感謝」を持って「共存」を選択していたのですね。

果物の木は、収穫の際にいくつかの実を残しておく「木守り」というものがあります。

その理由の中には鳥にやり種を運んでもらう、そのまま熟させ地面に落ち、種子と養分を土へやるといったものも含まれています。今「木守り」という言葉を知っている人はどのぐらいいるのでしょうね。

 

 うちの畑では、去年は作物という作物がほぼ全て鳥や動物により壊滅しました。今年もかなりやられました。これらの言葉を知り、このような記事を書いている私ですが、「怒り」の感情はやはり生じてしまうのです。先に「重労働なのを知っているからこそ尚更に響いた」という事を書いておりますが、人間は苦労して手に入れようとしたものほど「自分のもの」という思いが強まるものです。

先の言葉を語った昔の人は、恐らく私よりも重労働であったことでしょう。(耕運機もなければ、農機具も今ほど多様ではなかったでしょうからね)それにも関わらず、先の言葉を言うからには、自然に対してそれだけ心底から感謝を持っていなければありえない事だと思うのです。

 

 現在の私達が失ったものは実はかなり大きいのかもしれませんね。