はいっ坊主

坊主が気まぐれに日々のご縁をしるします

言葉の裏側にあるもの

「学校は間違える所だ」

かつて私が在籍していた学校の教師たちの中で流行っており、複数の恩師達に言われた言葉です。

当時はすばらしい言葉だと素直に受け取りましたが、今改めて考えてみますと、限定的にもプレッシャーをかけているようにも受け取れます。

と、申しますのも、例えばシンプルに

学校以外では間違えてはいけないのか?

ということですね。

間違えないに越したことは無いでしょうが、人間である以上、必ず何かしらの間違いをしてしまう事は避けられません。料理の味付け、仕事のミス、ついつい感情的になってしまう事もあれば、気をつけていても事故を起こしてしまう事だってあります。

 

 実際には、学ぶ以上最初は戸惑うこともあれば、間違えることも多いだろうけど、間違えても恥じる必要はないから、どんどん間違えなさい。そして少しずつ間違いを正していって、成長して下さい。学校はそれを全力でサポートしますよ。

という意味であって、決して先述したような他意のある言葉ではないと理解しております。

 

 このように言葉には受け取り方によって誤解をしてしまいかねないものが存在します。私のようなへそ曲がりな理屈屋は特に注意が必要ですね。

例えば、「井の中の蛙、大海を知らず」なんて諺があります。

そしてその諺に続きを作ったものがあります。

「されど空の高さ(青さ)を知る」と言うものですね。

素直に受け取れば、海の存在は知らなくても、外の世界への憧れは誰よりも強く

それゆえに空を仰ぎ見る機会も多く、そのすばらしさを誰よりも知っているんだという意味なのはすぐに理解できます。

しかし、私はそういう時に余計な事も考えてしまうわけです。

井戸の中の蛙は、限られた資源しかない場で短い命を生きる事になる。

一方井戸の外の世界には、実際に井戸の中の蛙が憧れて止まなかった空を飛ぶ道具だって存在する。果たして実際に空の事を良く知っているのはどちらなのか?実は空は青くない事を知っているのはどちらか?といった具合ですね。勿論口には出しませんよ?そのぐらいの気遣いは持ち合わせております。

それでも「わー性格悪い!」

なんて印象を受けられた方も居られるかもしれませんが、実はこれは大事な事でもあるのです。

そして、皆さんもその事をよくご存知のはずなのです。

「京都のお茶漬け」なんて話は聞いた事がある方も多いでしょう。

京都でお茶漬け(ぶぶ漬け)を勧められたら「お帰りください」の意味なのだというものです。実際にはそんな事まずないわと京都の方に言われましたが(笑)

このように「言葉の裏側に込められた本当の意味」というものを理解する為には、言葉を素直に受け取る事は勿論ですが、それ以外の意味にも思いを馳せる必要があるわけです。

政治の世界なんかは、非常に多いですね。言葉からの真意の探り合いは日常茶飯事です。

KYなんて言葉も、大分略語として認知度が上がってきましたが、これもまた同じですね。状況や言葉から真意を読み解いて、それに沿った行動をしないと「KY」になるわけです。

昨今報告の多い様々な詐欺についても、素直に言葉の表面を見るのではなく、矛盾点等をしっかりと見定める事で避けられるものも少なくありません。

かつて私の元へかかってきた詐欺の電話もそうでした。

先物取引関係の詐欺でしたが、早口で計算を並べられて、「どうです?すごいでしょ?」なんて感じでしたが、こちらが理数系である事を見抜けなかったのが最大の敗因。計算式の矛盾を問いただしたところ、ブツンと電話を切られたなんて経験もございます。

 

 余談ですが、この表立って書かれた事(顕)とその真意(隠)を読むと言う事は、日常の中だけではなく、仏教の世界でも当たり前に行われており、仏教を学ぶ際には避けられない必須な事でもあります。

一般の方に、ご法話等を通じてお話させていただく場合には、そんなややこしい話はせずに、導かれた答えの部分を噛み砕いてお話される事がほとんどですので、

「え???そうなの???お経に書いてあるんじゃないの???」

なんて思われる方も多い事と思います。

例えば浄土真宗の経典である「浄土三部経」にも、無量寿経以外は「顕」と「隠」があります。現代語訳された書籍等もありますから、読まれたことがあるという方もおられるかもしれませんが、素直に読んだ際に、観無量寿経阿弥陀経浄土真宗の教義とは異なるズレや矛盾を感じませんでしたか?

親鸞聖人は、観無量寿経を「第十九願(自力諸行)」、阿弥陀経を「第二十願(自力念仏)」、無量寿経を「第十八願(他力念仏)」と位置付け、衆生を第十八願へと誘引する為に、観無量寿経阿弥陀経が説かれたのだとされました。

つまり、真意は無量寿経、第十八願へと導く為の手段であって、顕にはどちらの経も自力が書かれているけれども、隠にはどちらの経も方便が書かれているだけであるとされたのです。これを三経一致門と言いますが、ややこしいでしょう?

実際に教義を学ぶ際には、七高僧の釈功、報化ニ土・・・と順を追って導かれ、三願、三経、三門、三蔵、三機、三往生とまとめられ正因三願となるものですから実はこれでも9割9分以上端折って書いたものです。

詳しく知りたい方は、

浄土三部経と七祖の教え(勧学寮)」

親鸞聖人の教え(勧学寮)」

という書籍がございますので、そちらをお読み下さい。

amazonでの通販もできますし、本願寺内のブックセンターでも購入できます。

または、聖典(注釈版)をお持ちの方は、三経の頭にある解説部分にこの顕彰隠密、三経一致門について書かれております。

このブログで取り扱うには専門的すぎると判断しており、今後も法話として軽く触れることはあっても、詳しい解説まではする予定はありませんので、気になる方はご参照下さいませ。

 

 さて、言葉の表裏という二重構造を持つものが決して珍しいものではなく、日常にも溢れていると言う事が見えてきたところで、ひとつ「叱」という字を紹介させていただこうと思います。

 この「叱」という漢字ですが、これもまた表裏の意味をもった漢字のように思います。

よく「怒る」と「叱る」は違うのだと言われます。

そこには私も異論はありません。

しかし、「叱る」の意味を表面でしか受け取っておられない方が多いように思います。

「叱る」は怒らずに相手に分からせる事と考えている方が多いのではないでしょうか?

 

「叱」という字は、口に「切る」と同じ「七」みたいな字が組み合わさっています。

この「七」みたいな字は、刃物で十文字に切った様子を表しています。

なので「切る」という字は「刀で切った」という字の成り立ちを持っているわけですね。一方の「叱」という字は「口で切る」と書きます。

さて、一体なにを切ったのでしょうか?

先ほどの「表面しか受け取っていない」という部分は、ここに思いを馳せた方が少ないのではないかと申し上げたわけですね。

字の構成を素直に受け取り、口で相手を刃で切るが如く傷つける事が「叱る」であれば、今ごろはきっと違う意味で伝わっているのではないかと思うわけです。

かといって、怒らずに分からせる事という意味にもまた結びつき難いですね。

では何を切ったのか・・・。

私はこれを「悪業」を切ったのではないかと受け取らせて頂いているわけです。

 

歎異抄の中に、「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆえなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆえなり」という一節があります。

この宿善、悪業のことを宿業と言います。

これは以前のブログに登場している、「千人殺してこい→できません」という話で、親鸞聖人がその理由としては「それはな・・・」と語ったものです。

簡単に訳すと、良い心が起こるのは宿善があるからで、悪い心が起こるのも悪業があるからだということです。

つまり、人間の善悪は宿業によるものとなるわけですが・・・。

以前、因果という話にふれておりますが、因果というのは、決して身近なものだけに限られたものではありません。はるか昔の人が落とした小銭が、たまたま現在の草むらで見つかり、拾おうとした人が足を滑らせて怪我をするなんて事もまたありえるように、時代も距離も越えて複雑に結び絡み合ったものが因果です。縦の因果と横の因果なんて言い方をされる方もおられますが、法律のように直接の目立つ因となった者だけが裁かれるといった単純なものではなく、遥かに広く、時間軸上にも長いものですから、少しわかり難いかもしれません。バタフライ効果なんてものがありますが、あれもまた因果を説明したものの一つです。

親鸞聖人は、同じ歎異抄の中で

「卯毛羊毛のさきにゐるちりばかりもつくるつみの宿業にあらずといふことなしとしるべし」

うさぎや羊の毛の先についてる塵ほどの罪も、前世の宿業でないものはないという意味になりますが、前世だ輪廻だという話をしているわけではなく、聖人は「私達凡夫は、縦横の因果の中にあってそれをどうすることもできない身(悪人)である」という事を仰っています。

そのような私達は、些細なきっかけがあれば、簡単に悪事を働いてしまうような存在です。

しかしながら人間は「学ぶ」事を知っています。

知識や経験から判断したり、予測したりする事で、わかり易い因果に関しては察する事ができます。その中で悪い方に作用する因果を見た先生や親や身近な目上の人達は、たまらず手を差し出すでしょう。

その救いの手が「叱」であると受け取らせて頂いているわけです。

ということには、広い意味では悪い因果が働きそうになったときに、脳裏をよぎって止めてくれるような大切な人や親兄弟、恋人の存在もまた「叱り」であると考えます。

 

 「怒る」と「叱る」が違うと一言で申しましても、こういった目線で改めて見ますと、一層違いを感じられます。

仏様のような力のない、凡夫な我が身なれど、それでもささやかながら出来る事、お手伝いさせて頂ける事はあります。叱りが身近な人達による、救済の手であるならば、叱る方もにもまた、そこに「利他」の心があります。

まとめますと、「叱る」とは

「利他の心をもって、ささやかながら救いの手を差し出し、悪業を断つ事」

私の勝手な受け取り方ではありますが、叱るという字が温かく素敵な字に見えてきませんか?