大乗仏教の登場と伝播
大乗仏教という言葉は「偉大な/大きな」「乗り物」で「大乗」と呼ばれています。
「大」があるなら「小」もあるのか?と言いますと、答えは「あります」。
しかし、小乗仏教という言い方は、大乗仏教が登場したことによって、大乗仏教に分類されない従来の部派仏教等の事を指した呼び方で、しかもその呼び方には蔑称の意味があることから、現在でも通じはしますが、あまり使わないようにされています。
この言葉の説明だけでも何となく予想が出来るとおり、部派仏教と大乗仏教には何やら、ただならぬ壁がありそうです。
前回の補足にもなりますが、釈尊入滅後の仏教の話の中で、根本分裂、そして部派仏教への分裂についてお話させていただきました。まだ、読んでいないという方は、混乱を防ぐためにも一度お読みになってから、今回の話をお読み頂くと、より理解が深められると思います。
仏教教団が分裂した原因は三蔵の「律」の解釈をめぐる要因が大きいという事にも触れましたが、分裂した各派は、それぞれに釈尊の教えを解釈して、三蔵の「論」をまとめる作業を行いました。
そうして、まとめられたものをアビダルマと言うことから、部派仏教の事をアビダルマ仏教と呼んだりもします。
そんな分裂が数百年に渡って起こったわけですが、紀元後1世紀頃になると、それまでの単純な分裂とは少し異質な、分裂なのか登場なのか、定かではないものが登場してきます。それが大乗仏教です。
間違いないのは、確実に求められて登場していることでしょう。
ここで、前回の話の中で私の考えとしてお話させて頂いた事が、表立ってくることになります。恐らく、前回までの話をお読みいただいた方の中にも、仏教に対して「あれ?」と感じた方がおられるのではないかと思います。
そう、これまでの仏教の教えによって救いの道の達成を目指せる人というのは、限られた極一部の人達だけです。
八正道(また別の機会に解説します)の実践、教義の理解、瞑想を行ったりといった事を充分に行うためには、まず出家して修行に集中できる状態にならなければなりません。例えば奴隷として自由の無い人が、救いを求めても、奴隷としての仕事をこなしながら充分な修行などできるわけがないのです。
考えてみれば当然ですね。現在の日本においても、国民全員が出家して比叡山などに篭って、托鉢をして食料などを確保して・・・食料を誰が布施してくれるのでしょう?
そもそも食料を誰が作るのでしょう?誰が流通させるのでしょう?
あっという間に、社会は滅茶苦茶になってしまいます。
当時のインドであってもそれは同じです。
では、そのように修行に身を置けない人達は、どうしたら良いのでしょうか?
これもカルマだと諦めなければならないのでしょうか?
大乗仏教に対して、小乗仏教という言い方が蔑称の意味合いを持つというのは、こういった要素を大乗仏教側から見た時の軽蔑、非難なわけです。
部派仏教は前回の内容で触れたとおり、結集に参加した弟子の阿羅漢たちの流れ、言わば釈尊に近い専門家たちによって受け継がれたという色が濃いものです。釈尊から受けた教えも、当然出家修行者向けの教えでしょうから、より専門的なものになっているのでは?というのが、私の持論です。
仏となった釈尊が、我が身と我が弟子のみを救って、苦しむ衆生は見殺しにするとは私には到底考えられないのです。
さて、登場しました。私と同じ疑問を持つ人を解決してくれる仏教が。
それが大乗仏教なのです。
部派仏教との、最も大きな違いは「利他行」の存在になります。
簡単に言えば、苦しむ一切のものを救おうという精神です。
大乗仏教の登場に関する私個人の説などは、入り込んだ私の主観からなんとなく察しがつくと思いますが、機会があればお話させて頂こうと思います。ここでは先へ進めたいと思います。
紀元後2世紀に登場する「龍樹菩薩」によって、大乗仏教は完全に確立されたと考えて良いでしょう。
後に部派仏教の系統はインドの南側ルート、大乗仏教は北側ルートを通って広まっていく事から、現在のタイやスリランカに伝わっていく仏教を「南伝仏教」、中国や日本に伝わっていく仏教を「北伝仏教」と呼んでいます。
南伝仏教は、現在でも当時の部派仏教の流れを守っていますので、ここからはタイトルに従って、主に大乗仏教が伝播していく北伝仏教に話の焦点を当てたいと思います。
大乗仏教は、シルクロードを通り、チベットや中国へと伝播していきます。
こう聞くと、西遊記のお話を思い出す方も多いと思いますが、まさにそのとおりです。
西遊記に登場する「三蔵法師」は、三蔵(経・律・論)をおさめたお坊さんという意味で、モデルになったのは、唐時代の玄奘という僧です。
玄奘西域記なんて漫画もありますので、興味がある方は探してみると良いかも。
そして、朝鮮半島を経て、ついに海を渡り日本へと入ってくることになります。
日本に最初に仏教が入ってきたのは、538年とも552年とも言われていますが、実際にはそれ以前に、民間単位で入ってきていたと言われています。
最初は南都六宗(奈良仏教とも呼ばれる)という文字通り6つの宗派が日本に根付きましたが、色々と大人の事情もありまして(調べてみると面白いですよ)、桓武天皇、嵯峨天皇は、遣唐使が持ち帰った新しい仏教を保護するようになります。
それが、「天台宗(最澄)」、「真言宗(空海)」で、総じて「平安仏教」と呼ばれています。
中でも、最澄が開いた比叡山は、日本仏教における総合大学的な位置付けを担い、その後に登場する鎌倉仏教の礎となりました。
鎌倉時代には、比叡山で学んだ僧たちを中心に、宗派が誕生していきます。
それらの宗派を総じて「鎌倉仏教」と呼んでいます。
鎌倉仏教には、「浄土宗(法然)」、「浄土真宗(親鸞)」、「時宗(一遍)」、「法華宗(日蓮)」、「臨済宗(栄西)」、「曹洞宗(道元)」があります。
~おまけ~
乃至十念 若不生者 不取正覚 (唯除五逆 誹謗正法)
無量寿経の中に法蔵菩薩(阿弥陀如来が修行中の菩薩だった頃の名前)48の願立てが書かれている部分があり、上記はその一つ至心信楽の願と呼ばれるものです。
簡単に訳すると、
「私が仏になるとき、あらゆる人々が心から信じて私の国に生まれたいと願って、わずか十回でも念仏して、生まれることが出来ないなら、私は覚りをひらかない。」
となります。
度重なる戦乱、今とは雲泥の差のある農業技術や品種事情。冷害飢饉。
今の恵まれた時代に生きる私たちには想像だにできない時代背景が日本仏教にはあります。そんな中で生まれ、汗水流して日々働いても食えないこともある。
かつて親鸞聖人が出家した際に詠んだ和歌があります。
「明日ありと思ふ心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」
わずか9歳にして詠んだものです。
9歳の子供が、得度を明日しようと言われ、「今夜嵐になって桜が散らないとは限らないじゃないか」と例えて今日得度をして欲しいと懇願したものです。
「少しでも早く出家したい」、たった9歳の子供にそう思わせる時代だったのです。
「たとひ法然聖人にすかさせまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」(歎異抄)
これは、簡単に訳せば法然上人に騙されて、念仏して地獄に落ちたとしても後悔しないという意味です。
法然上人への尊敬であるとか、信頼であるとかという解釈もありますが
比叡山で、熱心に学び、常行三昧といった苦行を行った親鸞聖人が、それでも救われない我が身が、念仏の教えに出会って初めて救われた。「もはや私にはこれしかないのだ」という思いが溢れ出ている一節だと感じます。
そんな親鸞聖人が法然上人から受け継ぎ、よりどころとした阿弥陀如来の念仏の教えが、先述した無量寿経の四十八願(第十八願)です。
釈尊入滅後の仏教
釈尊が入滅した後の仏教はどういう風になっていったのかについて、背景も含めて解説したいと思います。
仏教以前、釈尊の頃、そして現在でもそうですが、インド方面では「口伝」が一般的でした。
この口伝を、一度聞いて他人に伝えていく伝言ゲームのようなものと考えるのは誤りです。伝言ゲームは、伝わる過程で誤りがあることを前提として楽しむものですが、口伝は誤りがあってはならないものです。
ですから、暗記して何度も互いに確認しあうという事が行われます。
皆さんも、学校や職場などで、目標や規則、注意点などを暗記し、皆で復唱したりした経験があると思いますが、どちらかといえばそれに近いものです。
「朝はおはようございますと挨拶しましょう」
というものがあれば、それを互いに覚え確認しあいます。
「昼はおはようございま・・・」
など、間違えていた場合、速やかに訂正されるわけです。
膨大な言葉をどうやって正確に口伝できるのか?については、面白い考察があります。
バラモン教の存在については、釈尊の生涯でも触れていますが、このバラモン教の経典であるヴェーダもまた、長い間の口伝によって伝えられました。
仏教よりも古くから存在しているのに、とあるヴェーダが文字に残されたのは、なんと紀元"後"14世紀になってからというのですから驚きですね。
それも一字一句違わずに伝承されたとされています。
その記憶のメカニズムというのが、コンピュータの記憶と類似した手法をとっているという考察があります。
面白い記事です。
実際のところ、人間の記憶というのは、上記のような記憶手法をとらなくても、反復していると驚くほどの相当量の記憶ができます。
般若心経というお経がありますが、覚えているという方も多いと思います。
般若心経を読む宗派の僧侶の方でしたら、100%暗記しているでしょう。
私の知り合いの一般の方でも、一字一句間違わずに暗記している方が大勢おります。
私の宗派では般若心経は読みませんが、若輩者の私ですら、文字数でいうと6~7倍になる阿弥陀経(漢字2000字弱)であってもなんとなく覚えてしまっています。
勿論阿弥陀経以外のお経も覚えています。
ちなみに、そんな私は記憶が大の苦手。
学生時代も、考えると分かる事はわりと得意分野なのですが、暗記科目は毎回結構な綱渡りをしてきました。
しかし、そういう試験の記憶とはまた違った記憶の感覚なので、同一視することができないのです。
私以上に記憶が得意で、長い年月、日々反復するとするならば、もっと記憶ができても何の不思議もありません。
むしろ、当たり前じゃないか?とさえ思うのです。
伝言ゲームのように誤ってとおっしゃられる方もおられるのは承知していますが、般若心経を暗記している僧侶の方を何十人も集めて、毎日のように互いに確認しあいながら伝承していったとして、内容変わるかな?なんて逆に思ってしまいます。
その量が桁違いだとしてもです。
暗記が苦手な私ですが、日本史などの科目に関しては実は暗記にほとんど苦労していません。幼い頃から、伝記などを読むのが好きでしたから、時代背景や事件の流れといった事を、部分記憶ではなく、流れで記憶していました。
それも、背景という理由を伴って頭に入っていたわけです。
ですから、暗記したのは、用語と年号ぐらいで、その用語に関しても、用語を覚えるというよりは、組み合わせで記憶されているという感覚でした。
電気が発明された。お釜でお米を炊く。という時系列の流れを組み合わせれば電気釜といった感覚ですね。
人間の記憶というのは、細かな関連付けの難しい羅列(電話番号のようなもの)は難しくても、流れの記憶は割と得意なものです。
「○月○日◎時に△駅前で□さんと待ち合わせ。」
年月日の記憶はあやふやになりやすいですが、待ち合わせをしたという記憶はあやふやになりにくく、重要性が高ければ高いほど長く残ります。
誕生日だから、以前の埋め合わせの約束だからなど、関連した理由付けがしっかりとあれば尚更です。
悩み苦しんだ人が、相談をして解決したとしたら、その相談内容と答えられた内容の概要を忘れるでしょうか?
言った言葉をそのままというのは難しくても、内容・要点はしっかり理解として記憶されます。
私は小学生の頃の叱られた記憶、辛い悩みがあった時期の事など見事に残っています。
むしろそれが普通ではないでしょうか?。
偈文(詩のようなもの)という形で暗記する一方、内容としての記憶、関連した流れの記憶、組み合わせの記憶、心身状態を伴う記憶・・・。
さて、大勢の体勢でこのように記憶された内容を、変えてみましょう。
できますか?
口伝=伝言ゲームとは異なるのだというのがお分かりいただけたのではないかと思います。
釈尊が入滅した後に、釈尊の弟子たちが集まって、釈尊の教えを確認しあいました。
これを「結集」と言います。
釈尊も、バラモン教なども同じですが、文字として残す事はNGでした。
そこで、釈尊の教えを一つ一つ確認し、結集に参加した者達が唱和し、認証するという形で結集は進められました。
結集の場には釈尊が仏陀となってから40年以上に渡る布教で接した者達が、全員参加したわけではありません。
王舎城郊外に、500人の比丘(阿羅漢)が集まりとあるように、阿羅漢に達した、いわば釈尊に近く、最も話を聞いていたであろう、いわば専門家たちが集まったのです。
結集に参加しなかった、釈尊の教えを受けた人達がどうしたのか・・・。
それは想像するしかありません。
子や孫、近所のものに口伝したものもあったでしょう。
自らだけで完結させたものもあったでしょう。
是非とも知りたいものですが、今となっては・・・ですね。
第二回目の結集は釈尊入滅から約100年後に行われました。
その後三回四回と行われますが、三回以降は、資料により時期に差異があり、断定が出来ませんが、最近ですと1954年に結集が行われています。
さて、第二回目の結集の頃に、仏教教団は分裂を始めます。
最初は上座部と大衆部とに分裂します。
分裂の原因は「十事非法」「大天五事」などの「律」(三蔵/経・律・論の律)の解釈による対立でした。
十事非法というのは、例えば、塩をもらった場合、その塩は使い切る事が決まりですが、塩が手に入らなかった時の為に、蓄えておいても良いか?といったものです。中でも金品での布施を巡る解釈が特に問題となったようです。
大天五事というのは、大天こと摩訶提婆という阿羅漢が、夢精しちゃった事件に端を発した、阿羅漢に達していも完璧じゃないし間違いもあるんだという五箇条を提示しました。それに反発するものと、そうかもしれないというものとで意見が対立することになりました。
保守的な立場をとったものは上座部、そうでないものは大衆部へと別れる事となり、これを「根本分裂」と呼びます。
その後も分裂を繰り返して、数百年の間に上座11、大衆9の計20の部派に分裂します。
それに対して、分裂前の釈尊の死後約100年間を「初期仏教」と呼んでいます。
このような分裂の話をしますと、仏教がどんどん元とかけ離れ、改造されていると受け取る方がおりますが、仏教の根本である教えに関してはどの部派にもきちんと受け継がれているという事を添えておきたいと思います。
人心の移り変わり、時代の移り変わり、状況の移り変わりは避けられるものではありません。数十年前の車と現在の車とでは、故障のし易さが大きく異なります。では、メンテナンスの頻度や車検の時期などをそれに合わせて見直そうじゃないかというのは極々自然なことでしょう。いやいや機械のことだから、これまで通りでいくべきだ、それも正解でしょう。しかし車に対する接し方が時代に合わせて変化しただけで、車が元とかけ離れて、車ではなくなったとは言いません。
釈尊の教えは確かに受け継がれていますが、数百年もたてば、布施の事情など変化して当然です。長期間布施できない商人が大量の香辛料を布施したとして、それを無理矢理使ったり捨てたりしなさいというのはまた乱暴ですね。長期間布施できないという事情もあり、まとめて布施したいという商人の気持ちを断りますか?
どちらも正解なんです。
そのような性質のものと考えてもらって良いと思います。
そのような中において、頑なに伝統を守ろうとするものがいて当然、柔軟に対応しようとするものもまたいて当然。しかし、どちらの立場をとっていても、確実に時代は移ろいでゆくものです。
仏教のその後ということで記載していますが、先述した話のついでですから仏教教団の見極め方を記しておきたいと思います。
『三法印』
これに
・一切皆苦
を加えたものを『四法印』と言います。
この三法印、踏み込むならば四方印が仏教の根本原理にあたります。
詳しいお話はまた改めて行いたいと考えておりますが、これらに対してきちんと向かい合い、その上で教義を展開していないものは、仏教じゃないと断言して頂いて構いません。
言葉の印象
「○○が30%にのぼりました」と「○○が30%にとどまりました」
同じ事を言っていても、与える(受け取る)印象が大きく異なります。
この文章で表現した人の「主観」が大きく作用している例ですね。
「○○は30%でした」
と表現すれば、その数値をどう見るのかの主権は受け取る側になります。
この「主観」交じりの表現と同じ思考を私たちは普段から繰り返しています。
「休みが残り1日になってしまった」
「ビールが後グラス半分しかない」
「Aさんは怒ってばかりいる」
などなど、例を挙げるのもたやすく、キリがありません。
「休みは残り1日です」
「ビールの残量はグラス半分です」
「Aさんが怒っているところを幾度か目撃した」
例え口に出さなくても、私たちの頭の中には「主観によるモノの見方」が絶えることなく連続されています。
そして、最後の例のように「偶々重なった事を決定してしまう」癖があります。
いつもにこやかで世話好きなAさんが怒っている所をたまたま2~3度見ただけかもしれません。Aさんが目立っていただけかもしれません。
急いでいるときの赤信号は、通常よりも印象に残り易く、「また赤信号に引っかかった!もう!」と思いやすいものですが、赤信号の数は、急いでいない時と変わらないかもしれませんし、場合によっては少ない事だってあるでしょう。
「主観交じりの表現と同じ思考を私たちは普段から繰り返している」と書きましたが、言い換えますと、私たちは主観による印象付けを無意識のうちに、自分にも、他人にもしているということです。
私たちは、そんな「偏った目」を持っていて、そんな偏った目で見たものを勝手に真実と思い込んでしまう「癖」を持っています。
幾度か偶々同じ県のナンバーの車の悪いところを目撃しただけで
「△△ナンバーの車はいつもウインカーを出さない」
△△県の人はマナーが悪く他人の事を考えないに違いない
思った事ありませんか?
ニュースやワイドショーや出所も真偽も分からない噂話などの極々一部でしかないはずの情報から
公務員ってのはみんな・・・
年寄りってのはみんな・・・
納豆ってのは・・・
○○ダイエットってのは・・・
有名なものなので、ご存知の方も多いと思いますが、こんな話があります。
一酸化ニ水素という物質があります。無色透明、無臭、無味ですが、毎年大勢の人を死に至らしめています。一酸化ニ水素は通常液体ですが、固形物も存在して、長時間固形物に接していると、深刻な体組織の破損に繋がります。
たしか、こんな感じの事が、つらつらと書かれていたと記憶しています。
一酸化=「O」 ニ水素「H2」
早い話「H2O」、水の事です。
毎年水難事故はあるでしょう。氷に長時間、そりゃ凍傷にもなります。
さもありげに、聞きなれない用語で話をされると、騙されてしまう人も多いものです。
騙す人が、権威であったり、影響力のある人であったりすると、尚効果的ですね。
ここで、自分の事と照らし合わせて考えてみてください。
これまで様々な「嫌な経験」をしてきていると思います。
友達との喧嘩であったり、身に覚えのない事を疑われたり、失敗したり、良かれと思って迷惑をかけてしまったり。
そして、その原因として考えられるありとあらゆることを考えてみてください。
その原因は「偏った目」と「癖」にありませんか?
今回の例のようなケースだけに限らず
ありとあらゆる物事、森羅万象の真実をありのままに正しく見て、正しく知る事。
これを仏教では「如実知見」と言います。
「ありのままを見る目を持つ」
もし、そんな事ができたら世の中が全く違った景色に映るのでしょうね。
腹が立った時、間違いをおかしそうになった時などなど、今回の話を思い出してみてください。
如実知見とまではいかなくとも、いくつかの視点で見て考えることぐらいはできます。
偏った目と癖で接したときに、遅かれ早かれ、苦しい思いをするのは私たち自身ですからね。
そうやって毎回思い出すことができたとしましょう。
これまでよりは僅かにマシになっているはずです。
それでも、やっぱり苦しい思いをしてしまうのが、私たち人間です。
私たちは以前の記事にも書いた「悪人」ですからね。
どんなに気をつけていても、僅かにマシにはなれど、やっぱり繰り返すんです。
お釈迦さんのようにはいきませんよ。
嘘だと思うなら、是非お試し下さい。
ちなみに、それを無駄だから不必要だと言っているわけではありません。
どんなに気をつけていても苦しんでしまう私であること
それは偏った目と癖から、なかなか離れられない私であることを知りましょう。
患部に触れずには怪我の治療ができないのと同じで、まずは患部の一つを確認しましょうと申しているのです。
釈尊の生涯3
釈尊の布教
釈尊の布教とはどういうものだったのでしょうか。
また釈尊自身も、生涯一箇所で布教をしていたわけではなく、各地を巡っています。
こうして、釈尊の弟子たちは増え、仏教の教団が形作られました。
釈尊の布教は、学校の先生のように、皆を前にした説法も行っていますが、個別への説法も行っています。
個別への説法が必要な理由は、想像にたやすいと思いますが、当時のインド辺りでは、階級による地位差別がありました。
また、職業、性別、境遇、能力など、人それぞれなのは今も同じです。
そこで釈尊は、個々に合わせた説法を行いました。
これを「対機説法」と言います。
釈尊が仏陀となってから入滅まで、こうした説法が行われたということを、頭の隅において置いてください。
この対機説法が長年かけて行われたという事が、また後日焦点になることが予想されますので・・・。
対機説法について有名な話を挙げてみたいと思います。
釈尊の弟子の中に周利槃特という人がおりました。
経典によっては、周利槃陀迦、周利槃陀伽といった名前で描かれている人です。
この周利槃特は、残念ながら頭の良い方ではなく、自分の名前を呼ばれた事も教えられるまで分からないという方でした。
難しい仏の教えを、説明して分かるような方ではなかったわけです。
そこで釈尊は、箒を渡し、毎日掃除をするように教えました。
毎日ひたすらに掃除を続けても、塵や埃、垢等は絶える事がありません。
綺麗にしたところを汚されると腹もたちます。
「塵を払え、垢を除け」と口にしながらの掃除は幾月も幾年にも及びました。
そして、彼は「本当に汚れているもの」に気付きました。
その本当に汚れているものの事を仏教では「三毒 (貪・瞋・癡)」と言います。
三毒についても、またの機会にお話をしたいと思います。
そして、最後には、周利槃特は阿羅漢となります。
ちょっとこぼれ話ですが、ミョウガ(茗荷)という薬味等に使われる植物があります。
香りが私も大好きで、味噌汁の具にしたり、焼いて味噌を付けたりと季節には楽しませて頂いております。
このミョウガには、迷信が一つありますがご存知でしょうか?
「ミョウガを食べると、物忘れが酷くなる」
これは、茗荷という釈尊の弟子の墓の周りに生えていたから、というのが由来なのですが、この茗荷というのは、周利槃特の事と考えられています。
話を戻しましょう。
釈尊の対機説法が、いかに相手に合わせたものであったのかが伺えるお話です。
他にも、女性による出家の話、王舎城の悲劇と呼ばれる話など、対機説法とも関連深いお話がいくつもあります。
ご存知のお盆の由来になった話の中に登場する場面も、対機説法の一つと考えて良いかも知れませんね。
これはお盆が近づいた頃にお話させて頂こうと考えています。
釈尊の入滅
釈尊も人間ですから、四苦(生老病死)からは逃れられません。
稀に勘違いをされている方がおられますが、釈尊は苦しみの原因を知り、全てを受け入れ、涅槃寂静の境地に達しているのであって、不老不死になったわけではありません。
釈尊は大勢の弟子たちに後を任せ、阿難という弟子を一人だけ連れて、故郷をめざします。
道中、チェンダと言う人が施したキノコ料理を食べて、病気になったと言われています。
尚、釈尊が人生において最上の食事だったとするのは、前回登場したスジャータの乳粥と、このチェンダの食事だという釈尊の言葉が残されています。
故郷を目前にしたクシーナガルに着いた釈尊は、自分の死が近い事を阿難に告げます。
阿難は泣いてしまいますが、それに対して釈尊は、泣いてはいけない。以前にも教えたことだ。と諸行無常のお説教をしたとされています。
怠ることなく努めなさいと最後の言葉を残し、頭を北に、右脇を下に、西を向いて横になります。
北枕の言われはここにありますが、インドでは最上の寝方とされているようです。
沙羅双樹が満開になり、比丘、動物が集まる中で横になっている絵を見た事があるかもしれませんが、それが涅槃図です。
こうして釈尊は寂静の涅槃に入りました。
遺体は河辺で火葬され、登る煙は太陽の光を受けて瑠璃色に輝いていたということです。
釈尊の生涯に関しては今回で完結します。
その後の仏教については、またお話したいと思います。
算数の順序問題
さて、この記事をお読みいただくと、それぞれに考える所が出てくると思います。
皆様はどのように考えますか?
意見を押し付けたり、批判したりという目線ではなく、素直に考えを巡らして、素直に問題に向かい合ってみる中で、皆さんの中の一つのご縁に触れられればと思います。
近年、頻繁に話題にあがる小学校の算数の議論をご存知でしょうか?
例えばこういうものです。
「リンゴが3個乗った皿が5枚あります。リンゴは全部でいくつありますか?」
この問題に対して「15個」と答えがあっていても
3×5 という式を立てれば正解
5×3 という式を立てれば不正解
になるというものです。
求めたい解は「リンゴの数」であって、「リンゴ」が「何個分」としなければならないというわけですね。
算数というのは、数学の一部、基礎にあたるものですから、当然、前置きなどなくても四則演算の性質、交換法則、分配法則、結合法則も成立しているものです。
ですから、交換法則 ab=ba は一見問題ないはずなのですが、国語的な意味を加味しないと、式が意味を持たないと。
当然これは議論になります。どちらの意見もごもっともなんです。
そこで、こういう文章題があったらどうでしょう?
「縦3センチ、横5センチの長方形があります。この長方形の面積を求めてください」
この問題に対しては
3×5 という式で正解になります。
しかし、面積とは何であるのか?ということを考えると、ここに矛盾が生じます。
面積というのは 1×1 の広さを1平方と定義し、それが何個分あるのかということですから、先ほどの国語的な意味を持たすのであれば
1×(3×5) と書かなければならないはずなんですね。
リンゴの数を求めるならば、リンゴが何個分という計算をしなければいけないのですから
面積を求めるなら、1の面積が何個分としなければならないでしょう?
このような、○はこうしないといけないと言いながら、△では言及しない。
と言った、悪い言い方をしてしまうとご都合主義ともいえる中途半端な内容にしているのもまた、議論が過熱する原因の一つになっているのだと思います。
さて、これは足し算や掛け算という、数学的にはシンプルな性質を持ったものでは良いですが、割り算となったらどうでしょうか?
「15個のリンゴを5枚の皿に同じ数ずつ乗せる事にします。一皿あたり何個のリンゴが乗りますか?」
当然 15÷5 という式になりますが
これをわざわざ 1/5÷1/15
みたいな逆数を用いたのでは、「はい????」ですよね。
このように考えると、割られる数と割る数、掛けられる数と掛ける数といった、国語的な意味合いを持った式にするということは、意味のある事であると思います。
それだけに、「なぜ問題文に書いておかないのか?」が、この議論を見かけるたびに、私の個人的な疑問点となっています。
数学である算数には四則に伴う性質があるわけですから、そこに問題文で触れないままに問答無用で
「不正解」や「減点」
としてしまうから問題があると思います。
人によっては、数学の基礎をやっていながら、数学の法則を否定するの?と思われても仕方ないでしょう。
式に国語的な意味を加味しなさいと問題文に書かれているならば、誰もが納得の不正解で当然ですが、そうでないのであれば、それを不正解とされる数学的な理由はどこにもありません。国語の問題は国語でどうぞとも言いたくなるでしょう。
むしろ、数式に国語的な意味で順番が・・・なんて言うのは屁理屈というものです。
3個乗った皿が5枚も、5枚の皿に3個ずつも、数学的には正しいのですから。
それでも不正解にするというのであれば、答案の隅にでも、「四則演算に基づくと書いておけば、正解にして下さるんでしょうな?」という私のような理屈屋が登場した際に先生はさぞかし困りますね(笑)
分かっていて、理由のもと、あえてやっている人は正解にして下さるとは思いますが(笑)
・・・ですよね?
中学時代だったか、模範解答とは違う解法だったけれど、何度見直しても、後に誰に見せても証明成立しているにも関わらず、抗議しても覆らなかった残念な記憶が・・・(汗)
おもしろい算数と数学の例を出してみます。
1リットルの水を3つに均等に分け、それぞれABCの3つのバケツに入れます。それを3回行うと、バケツ1つあたり何リットル入っていますか?
小学生の算数の順序問題も踏まえて式をたててみます。
(1÷3)×3=0.99999・・・
同じ問題を数学として解いてみます。
数学では÷3を逆数として表せますから1/3とします。
1/3*3=1 となります。
算数の0.0000・・・001はどこへ行っちゃうのでしょうね?
これは十進数ゆえの矛盾なのですが、算数のやり方と数学のやり方で
解答が異なってしまう有名な例です。
他にも1:1:√2の二等辺三角形を用いた同じような問題もありますね。
10cm四方の正方形の紙(紙の厚さはないものとする)を対角線に一回半分におったものを4つ組み合わせて作った正方形の面積・・・みたいな感じですね。
算数的なやり方をするなら19.999・・、数学的に解けば20ですね。
私個人の考え方では、数学(算数を含む)というのは、あくまで「数」の「学問」なんですね。数というものは、十進数に限る話ではありませんし、仮定したり代数を用いる事も当たり前に行われます。問題に存在しない補助線などを想定して、解を導くような事もあります。
いわば、数とはなんぞや?というものを研究し、証明されたものの一部が学校で習う数学であって、冒頭の文章題なんかは、「たまたま、更にその極一部が日常のものを数えたりする場合に便利に使えただけ」にすぎないと思っています。
一方で試験などの「問題」というのは「出題者の意図との一致を以って正解とする」という概念があります。
聞いた事のある笑い話で、とある国語の問題で「このときの作者の気持ちを答えなさい」という問題を目の前にした子が、偶然にも作者の娘で、作者である父親に聞いたら「締め切りが・・・」という気持ちだったと答えられたなんてものがあります。
出題者の意図と作者本人の意図が異なっていたという笑い話ですね。
それだけに、十進数で出題されている以上十進数で答えますよといった、あまりに当然でしょうというものに関しては暗黙の了解でよいと思いますが、演算の性質のようなどちら側の考え方も存在しうるものにかんしては、問題文に書かなければ、式の立て方に関しての出題者の意図はないものとみなされても仕方ないですね。
但し、だからと言って順序を無視しても良いと言っているわけではありませんよ、小学生諸君!。
四則演算の性質が分かっている上で、意図的に順序を変えるのと
分からないまま、順序が逆だったのとは大きく違います。
私が先生なら、前者は正解にしますが、後者は問題文に但し書きがあろうがなかろうが不正解にします。
私がこの算数の議論について考える事ができるのも、それを考える事ができるだけの材料に支えられているからに他なりません。
順序は大切と考えられている方も、あくまで数学だと考えられている方も、また、別の考えをめぐらせた方も、それぞれにその考えを巡らせて論争できるだけの材料があり、ご縁があるからです。
この記事を読んだ人が「自分はこう考えるなぁ」と思えるのも全て同じです。
考える事ができる自分ではなく、先日の折り紙の話と同じ
おかげさまで考えるという仕上げ作業をさせてもらっているわけです。
なぜ「させてもらっている」という受身の書き方なのか。
これを機会に、どうか直接的にご縁があった先生や友達、ご両親といった方々にだけでも結構ですから、感謝してみませんか?
今の私というものを見詰め直すひとつのきっかけになっていただければ幸いに思います。
釈尊の生涯2
釈尊の生涯1で触れたように、カーストはカルマによって決まるとされていますから、より良く生まれるには、より良い行いをしなければなりません。
しかし、輪廻の輪から完全に抜け出す(解脱)するには、カルマを清算しなければならないと考えられました。
カルマを清算するというのは、自ら苦行をするということです。
場合によっては、自傷行為、自殺行為を奨励するケースもあったようです。
そして、このカルマによる輪廻という思想は、当時常識のように信じられていた事が予想できます。
それでは、釈尊の生涯2をお楽しみ下さい。
釈尊の出家と修行
釈尊の出家もまた苦行からスタートしました。
カースト制度に反対の釈尊はバラモン僧ではなく沙門(シュラマナ)として
先人の仙人に師事したりもしましたが、最終的にネーランジャラー河のほとり、ウルヴィーラの林に入り、苦行を行いました。
この時、父である王が5人の沙門(五比丘)を釈尊の元へ送っています。
6年に渡る苦行を行った釈尊ですが、この修行法では目指す境地に辿りつけないと見切りをつけ立ち上がった釈尊は、生きているのが不思議なほどに痩せ衰え、弱り疲れきっていました。ネーランジャラー河で身を清めた後、流されそうになりながら岸に戻り樹の下に坐っていますと、村娘がやってきました。
この村娘、名前はスジャータと言います。
褐色の恋人でお馴染みの某ミルク等のメーカー名はここから来ています。
それを見ていた五比丘は、王子は修行から脱落したと考え、去ってしまいました。
その後、釈尊は河を渡り、菩提樹の下に結跏趺坐(あぐら状態の両足を太ももに乗せたバージョンの座禅でお馴染みの坐り方)を組み、目的を達するまで決して立ち上がらない決意をしました。
これを知った魔王が邪魔をしにやってきます。
まずは3人の美女による色仕掛けを行いますが、釈尊には通じません。
そして魔王が様々な術で釈尊に挑みますが、釈尊は魔王の術には実態がない事を見抜いており、これを打ち破り、ついに覚りの境地に達します。
このことを「降魔成道」と言います。
この時、目覚めた者(覚者)という意味の「仏陀」が誕生したのです。
釈尊はその後暫くの間坐り続け「十二因縁」をまとめました。
釈尊が成道したことは天もすみやかに察知しました。
梵天が釈尊のところへやってきて、その真理を広めて欲しいと願いました。
しかし、釈尊はこれを断ってしまいます。
というのも、その真理は難解でとても教えられるものではないからという理由です。
それでもと説得する梵天を二度断りますが、三度目に承知しました。
そこでは、以前に釈尊が脱落したと見切りを付けた五比丘たちが修行をしていました。
何しにきたのかと見ていますが、なにやら釈尊の様子にただならぬものを感じました。
そして、五比丘たちに最初の説法「処女説法」を行います。
最初の説法は「四諦八正道」でした。
これによって、仏の教え、法(真理)の輪が車輪の如くまわり始めたという事で
『初転法輪』の説法と呼ばれています。
釈尊の生涯2はいかがでしたか?
逸話や説などを全て盛り込むと膨大な量になってしまうので
ポイントだけをまとめたつもりですが、ここまでで、いよいよ
仏教がスタートしました。