はいっ坊主

坊主が気まぐれに日々のご縁をしるします

釈尊の生涯1

 仏教という言葉は知っていても、仏教ってどういうものなの?

と聞かれたときに、なんとなくのイメージしか持っていないという方も多いのではないでしょうか?

折角ブログをはじめたわけですし、仏教について

宗派の枠にとらわれずに記載していこうと思います。

仏教を知るきっかけになっていただければ幸いです。

 

 まずは、仏教の開祖である釈尊仏教のはじまりについて、時代背景なども含めて記していこうと思います。

文章がだいぶ長くなる事が予想されますので、適当な所で切りながら

何度かに分けて進めたいと思いますので、お時間のある方は

暇つぶしでも結構ですので、しばし仏教に触れてみて下さいませ。

 

釈尊の誕生』

 釈尊は、今から2500年以上前、紀元前560~460年頃にヒマラヤの南の麓

現在のネパール南部タライ平原にある小さな村で釈迦族の王子として誕生しました。

釈尊誕生の地ルンビニー園は、仏教の聖地のひとつとなっていて、現在も遺跡として残っています。)

名前をゴータマ・シッダッタ(これはパーリ語での読み/サンスクリット語ではガウタマ・シッダールタ)と言いました。

 

 さて、本格的に釈尊の生涯に入る前に時代背景をおさえておく事にします。

なにせ大昔の話ですから、曖昧にしか分からない事も多いのですが

釈尊誕生よりさらに昔の紀元前13世紀ごろに、アーリア人がインドに入ってきました。

そして数百年かけて、宗教が融合し、ヴェーダ聖典として自然神を崇拝する宗教、バラモン教が生まれます。

バラモン教というのは、大昔のヒンズー教と考えて下さい。

現在のヒンズー教とは色々と異なるので、後にバラモン教と区別して名づけられました。

当時はバラモン教に属さない宗教もありましたが、バラモン教が勢力を持っていたと考えて良いでしょう。

 未だに根強く残る差別の問題「カースト制度」はここにルーツを持ちます。

カースト制度というのは、司祭階級のバラモンを最上位にクシャトリヤという王族階級が続き、ヴァイシャという庶民階級、シュードラという奴隷階級と続きます。

さらにその下の階級に不可触賤民がありました。

この階級に生まれた以上、生涯階級が変わることはなく、違う階級のものと結婚する事もできません。

つまり、奴隷として生まれた以上、奴隷としての人生が決まっており、死ぬまで奴隷です。

不可触賤民として生まれてしまえば生涯奴隷以下の扱いです。

カーストがなぜ作られたのかという研究もありますが、教義としてバラモン教ではこの階級は業(カルマ)によって決まるとされました。

分かり易く噛み砕いていえば、前世で良い行いをしていれば、良い階級に生まれるという感じのものです。

今でいう「輪廻転生」のルーツですね。

奴隷や賤民として生まれたのは、前世の行いが悪かったから

低い身分は自らが招いた事というわけですね。

 

 では、再び釈尊の話に戻します。

 釈尊が生まれたときの逸話がいくつかありますが、有名な所を2つばかりかいつまんでみますと、「釈尊は右の脇から生まれた」「生まれてすぐ歩いて喋った」が有名です。

しかし、実際に脇から生まれるわけはなく、これは象徴的な表現といわれています。

カースト階級のバラモンは頭から、クシャトリヤは脇から、ヴァイシャはお腹から、シュードラは足の下から生まれるとされており、王族である釈尊は脇からといわれたわけです。

生まれてすぐに7歩歩いて、右手で天を、左手で地を指し「天上天下唯我独尊」と喋ったとされています。

これも、釈尊本人が言ったのではないものが釈尊自身が言ったと信じられるようになった説や、本当に本人が言った説などあるようです。

釈尊を生んだ母マーヤーは、それから7日後に亡くなりました。

釈尊はその後、王族らしく何不自由ない成長をしますが、沈みがちなもの静かな性格だったと言われています。

あるとき、農耕祭に出かけたときのこと、土を見ていたら小さな虫が出てきました。

しかしその虫が小鳥に食べられてしまいました。さらにその小鳥は大きな鳥に食べられてしまいました。

あっという間に奪われた命を目の当たりにした釈尊は、生きる意味、何故生きて、何故死ぬのかを考え、瞑想をするようになりました。

そんな釈尊も16歳になり、ヤショーダラというお嫁さんを貰います。

そして、ラーフラという子供が生まれます。

 絢爛豪華で贅沢な月日が流れたある日、釈尊が有名な「四門出遊」とあいなります。

東門から出た釈尊は杖を頼りにやっと立つ醜い老人に出会いました。

次いで南門から出た釈尊は苦しみもがく病人に出会いました。

次いで西門から出た釈尊は葬列に出会い死人を見ました。

最後に北門から出た釈尊は一人の修行者に出会いました。

その修行者は「生死の問題を解決する為に解脱を求めて出家し、揺るがない不滅の境地をつきとめるために修行している」と言います。

 城に帰った釈尊は、父である王シュッドーダナに4つの願いを申し出ます。

 

1.私が決して老いない事

2.私が決して病にならない事

3.私が決して死なない事

4.私がそれら全ての災いによって不幸にならない事。

それらが全て叶うなら、王のあとを継ぐが、叶わないなら出家させてほしい

 

そう願い出たものの、王が許すわけがありません。

その夜、釈尊は密かに城を抜け出しました。

そして明け方まで東に進み、従者に身につけていた宝石などを渡して

そのまま出家しました。

 

 釈尊29歳の時の話です。

 

釈尊の生涯1、いかがでしたか?

釈尊の生涯2では、釈尊の修行と時代背景について記そうと考えております。

 

見えないものを見る力

「学問」と「勉強」の違いを考えたことがありますか?

 

単純に字を見てもらうだけでも、「問うて学ぶ」のが学問で

「強いられて勉める」のが勉強と解釈できます。

「勉強しなさい」という親の言葉だけに限らず

より良い学校に入って、より良い就職をと考えることからくる

プレッシャーもまた「強いる」でしょうし

周囲に対するあせりや競争心もまた「強いる」に該当するでしょう。

 

 一方の学問は「強いられない」ものです。

強いられないのに学ぼうということには、そこには「探究心」であったり、軽いところでは「興味」があるからということになります。

入り口はそれで充分すぎるものだと思います。

勉強には、「目的を達するというゴール」があります。

例えば、試験に向けて漢字を覚えるとしましょう。

その時に、試験範囲外の漢字まで勉強しますか?

もし、勉強中に「この漢字はどうしてこういう部首を用いているのだろう?」

なんて考えから、それを調べることで試験範囲外の勉強をしたなら、それは

勉強ではなく「学問」です。

そこには「興味」が湧いているわけです。

学問にはゴールなんてありません。

「学ぶ」という表現が敷居の高さを感じるならば

「知りたがる」「知ろうとする」

と置き換えて読んでもらってもかまいません。

「ご近所の○○さん▲▲なんだって~」

「え???どういうこと?」

一緒です(笑)

勉強大嫌いな子供が「恐竜大好き」「宇宙大好き」「古代遺跡大好き」

買ってあげた図鑑や絵本、例えば漫画であっても解説された本。

楽しそうに読んでは「こうなんだよ!」と得意げな顔。

普段、真面目なドキュメンタリー番組なんかは見向きもしないのに

恐竜やら遺跡となれば、夢中になって見ている。

私に言わせれば、それは立派な学問です。

 

「好きこそものの上手なれ」

は、ただ何もないところに諺としてあるわけではないですし

「下手の横好き」

に関しては、当の本人がとても楽しんでいるのが予想にたやすいでしょう?

 

 そんな学問には、進めていくほどに時系列的な傾向が出てきます。

入り口は興味でも何でも良いのですが

それについて学んでいくと、そこから次々に脱線を求められることになります。

私が仏教を学ぶ際も同じで

宗派の教義を学ぶと、その教義の根拠を求めるようになります。

その根拠は複数の経典であったり論述であったりするわけですが

それを学ぶと、さらにその根拠や出所を学ぶ必要がでたり・・・

とキリがありません。

時には、大きな声では言えませんが教義に関して疑う

ところにまでいくことも珍しくありません。

結果、では「どうして?」という疑問がしきりなしに手を変え品を変え襲ってきます。

一つ疑問を潰そうとすると、さらにねずみ算式に増えた疑問が帰ってくるのですから

ゴールなんて見えるどころか、設定のしようもありません。

また、坊主なんてやっていますと、お話をする機会も珍しくありません。

人に教えていると、自分の中で理解している”つもり”だったものが露呈してきます。

わかりやすく例えてあげたくても、例えてあげられないと

充分な理解に到達していない事を思い知らされます。

 

『学びて然る後に足らざるを知る
    教えて然る後に困しむを知る』

 

実にうまいことを言ったものだと感心するばかりです。

しかし、まだまだ未熟ながらも、日々少しずつながら

問いを潰していけているのは分かります。

もっとも、それ以上の問いが戻ってきますけどね(苦笑)

同時に人間の「想像力」もどんどん酷使されているのが分かります。

あたかも現場を検証して思考を重ね、少しずつ事件の全貌が見えてくる

推理小説のように、全く異なる疑問からつぶした「問い」の答えが

いくつか出揃ってきたところで、「あれ?もしかしてこういうこと?」

といった事が多々あるのです。

これがまさに、タイトルにもした「見えないものを見る力」です。

 

 パソコンを触った事がない人に、パソコンを操作しなさいと言っても

何をどうして良いのか分かりません。

パソコンを立ち上げなさいといったら、キーボードを懸命に立てようとしていたなんて笑い話を聞いた事がありますが、まさにそんな状態です。

ある程度パソコンに慣れた人だと、初めて使うソフトでも何となく基本の使い方の予想ができたり、最低限の事はできたりしますが、パソコンに触った事がない人には

そんな事はできるはずもなく、挙動不審にキョロキョロするしかないでしょう。

パソコンの事を全く知らない人、少し知っている人、慣れている人では

先述した「使い方の予想」の出来方が雲泥の差として現れます。

 「あれ?もしかしてこういうこと?」

が出来るのは、「それができるだけの材料を持っているから」です。

人はそれを「経験(実践)」だったり「知識」だったり「知恵」だったりと呼びますが

理解の深さは、見えないものを見る力に比例しています。

もう少し違った目線でみてみましょうか。

そのパソコンに触った事がない人が、触る機会を経た後に街にでますと

「パソコン教室」「パソコン関連の本」など

今まで気付かなかった看板や本のタイトルに目が行くようになります。

 今までもそこにあったもの、にもかかわらず、今までは見えていなかったもの

が見えてくるようになったわけですね。

これも一つの「見えないものを見る力」だと思います。

自らに関連したことにより、意識が行くようになった。

その結果、そのままでは見えないままのはずだったものが

見えるようになったのですから。

 

 知識や経験というものが、多ければ多いほど

「見えないものを見せてくれる」

ことに繋がるのがお分かりいただけましたか?

その知識や経験というのは、

『学問』

と共にあるのもお分かりいただけたでしょうか?

学ぶ事は困しい事ではあっても苦しい事ではないんです。

勉強は苦しい事である場合が多いかもしれません。

「困しい」は困るという字の通り、次から次へと疑問が湧いたり

足りなさを思い知らされたりしますが

でも、同時に結構楽しいことも多いんです。

可愛がっているペットが、やんちゃをして

「困っちゃうわー」

と言いながらも、笑顔でまんざらでもないような

そんな心境に近いかもしれません。

 

 人間の生涯に嫌でもつきまとう様々な苦しみ。

その苦しみを解決するには、苦しみについての理解が必要です。

何を学問しましょう?

ヒントは仏教にありますよ。

身の丈にあわせた解決方法が用意されています。

法要の席等で行われる「法話」を聴聞されたことがありますか?

私の周囲でも、若い世代の人で「最近は法話を聞くのが結構趣味なんです」

なんてお話されている方がいます。

当事者の一人という贔屓目を抜きにしても、

実際に、結構面白いものなんですよ。

 

 このブログでも少しずつ紹介できればと考えていますので

興味を持たれた方は、共に学問しませんか?

紅葉

 昭和の時代、人々は木を求めました。

戦火、災害などの復興から「木材」の需要がとても高かったのです。

 

 先日、法要の席でそんな話を聞きました。

日本各地で「植樹」が行われたのはそのためだと教わりました。

 

 何年か前の春に、自坊の近くの山へ、山菜を採りに行きました。

子供の頃は、時々走り回って、時には迷子にもなったことがある山です。

そんな山ですから、もはや庭の如く、どこを上がればどこに着く。

どこに山菜がたくさんあって・・・なんて事は熟知していました。

ところが一歩山へ足を踏み入れると、山の中の様相は、私の知っているそれとは

大きく違いました。

登るのに使っていた獣道は倒木に塞がれ、落とされていない枯れ枝が

木々からぶらさがり、踏み均されていない獣道はところどころ崩れていました。

 

 その山の木々は元々植林されていたものです。

山を管理する人、木を管理する人がいなくなり

本来ならば、広葉樹も針葉樹も入り乱れているはずの山が

植えておきながら放置した結果、もはや材木にもならない

したところで、赤字になるだけの杉だらけの

寂しい山のまま放置されているのです。

 

 実を付ける木の少なさからの熊や猪、ハクビシン等による被害

幼少期を針葉樹で過ごすカメムシの大量発生。

そんな事を考えながら話を聞いておりますと、残念な気持ちが湧いてきます。

 

 近くの山が放置されて、既に何年もの月日が流れておりますが

最近は、この紅葉シーズンの山を愛でるのがささやかな楽しみになっています。

まだまだ針葉樹だらけで賑やかとはいえませんが、それでも年々

紅葉している木々の面積が広がっていくのを感じます。

 

 その紅葉した木々の広がり方もまたおもしろいもので

山に縞模様を描くかのように広がってきています。

僅かな広葉樹からの命のリレーが、山の斜面を利用して行われているのでしょう。

その結果、縦方向に広葉樹が広がっていき、縞模様のような山になるわけですね。

あと10年20年後、このまま順調に広がっていけば

錦絵のような目を楽しませてくれる山になってくれるのではないでしょうか。

善人と悪人

「あなたは善人ですか?悪人ですか?」

 

 まずはどちらなのか考えてみてください。

とりあえず前科はないし・・・人並みに親切もしてるし・・・

どちらかといえば善人かなぁ?

なんて人も多い事でしょう。

 

西遊記」を知っていますか?

多くの方が知っていると答えると思います。

あのお話の最初の部分を覚えているでしょうか?

悟空が、お釈迦様と勝負をします。

金斗雲にのった悟空が、猛スピードで地の果てまで飛びますが

そこにあった柱はお釈迦様の指で、悟空の負けというお話です。

 

 このお話、調子にのった悟空をお釈迦様が懲らしめる話

と考えている人が多いと思います。

でも、私はそれだけではない話なのだと考えています。

悟空は、「自分の力」を信じて疑わず、「自分の力」で何でも出来る

と思っています。

しかし、その「自分の力」を正しい目で見たときに

所詮「勘違いの力、幻の力」だと思うわけです。

お釈迦様は、お釈迦様として描かれてはいますが

「世の真理」の象徴として描かれているのではないかと考えるわけです。

 

 私たちが普段「自分の力」で行っていると考えている様々な事

それらは所詮は砂の楼閣にすぎません。

どんなに綺麗に掃除しても、すぐに汚れます。

どんなに雨風を防いでも、雨風を止めることはできません。

どんなに様々な物を作っても、時間、事故、災害はもちろん

些細なきっかけを前にしても破損します。

雨が降ることもあれば、風が吹くこともある。

どんなに頑丈な岩も割れることもあれば、薄い紙が予想以上に長持ちすることもある。

自然、社会、人の心理など様々なものが複雑に絡み合って「今」があります。

ついつい忘れてしまっていますが、それらはいつだって

当たり前につきまとうものです。

 

 気が付かずに蹴飛ばした小石がきっかけで、めぐりめぐって誰かが怪我をするかもしれません。

親切心からやった事で、誰かが不快な思いをすることもあるでしょう。

誠心誠意真面目に生きているつもりでも、誰かに利用されたり、はめられたりすることもあるでしょう。

 

 こうしておけば、”必ず”こういう結果になるという事は

世の中にただのひとつもありえません。

なる事が多い、場合によっては限りなく100%に近いことはあっても

絶対はないでしょう?

どんなに気をつけていても、風邪をひいてしまうことだってあります。

気をつけていないよりは、はるかにマシでしょうが、絶対ではないんです。

目の前で磁石のS極とN極を近づけるような一見確実そうなものであっても

外的要因でその行為が未遂に終わることだってあるでしょう。

勉強をすれば、それは絶対に成果になる?

明日の命がある保証がどこにありましょう?

 

 悟空がいかに力(自称)を持っていても、お釈迦様(真理)の前には無力であるのと同じで

私たち人間が、いかに「自分の力」を信じてみたところで

それは「絶対にあらず」なのです。

だからといって、努力は無駄だとか、何でもかんでも諦めろと申しているわけではありません。

より良いものを求めるのは人間の自然な姿です。

そのために努力して確率を上げるのもとても大切なことです。

ただ、「人間は真理の前には無力である」事を同時に知っておくのもまた

大切な事だと思うのです。

 

 よかれと思った事で、誰かを傷つけることもあれば

気を緩めた時に取り返しのつかないような事をしてしまうことだってある。

きっかけさえあれば、知らない間に罪に加担していることだってある。

時には悪い事をしてしまうことだってある。

そんなありとあらゆるものに翻弄されて定まらない私たちの事を、仏教の世界では

『悪人』

と言います。

 

 普段使っている「悪人」は犯罪者のような意味を持っていますが

仏教の世界では、法律に触れたかどうかという人間の作った枠組みでは考えません。

私も悪人、あなたも悪人、周りの人みんな悪人なんです。

だからこそ、何かしたわけでもない事で苦しい思いをする事もあれば

棚から牡丹餅のような事もあるのです。

悪い事をした人だから悪人ではなく

条件(縁、因果)さえ整ってしまえば、意志があろうとなかろうと悪い事をしてしまうような不安定な存在である人間を悪人としているのです。

 

 これまでの人生、自分の知っている範囲、知らない範囲も含めて

ただの一度も悪縁を作った事がないと断言できる人がいますか?

 

それでは、最後にもう一度問いましょう。

 

「あなたは善人ですか?悪人ですか?」

折り鶴

折り紙で鶴を折ってみて下さい。

折り鶴を前にしたあなたにクイズを出しましょう。

 

「誰がこの鶴、作ったの?」

 

 

「私が折って作った」

と答えたあなたは、僅かに正解です。

 

「間違いなく私が自分で折った鶴だ」

そう考えるのは極々自然な事でしょう。

では、問いをこう言い換えてみましょうか。

 

「なぜあなたはこの鶴を折れたのでしょうか?」

 

折り方を知らずに折れますか?

あなたに鶴の折り方を伝えた人がいるはずです。

その人に折り方を伝えた人がいるはずです。

その人に・・・。

 

紙がなくても折り紙ができますか?

紙を作った人がいるはずです。

紙の作り方を伝える人がいるはずです。

紙を発明した人がいるはずです。

 

そこに折り紙がなくても折り紙で折り鶴を折れますか?

折り紙を売ってくれた人がいるはずです。

折り紙を流通させてくれた人がいるはずです。

折り紙を商品にした人がいるはずです。

 

たった一つの折り鶴ですが

ここには書ききれるはずもない多くのご縁があって

初めてあなたが折り鶴を折るという過程の仕上げ作業ができたにすぎません。

折り方を伝えた人も

紙を作った人も

折り紙を売ってくれた人も

目の前にある折り鶴を折る為には欠かせない存在。

彼らもまた、その折り鶴を作った人。

 

私たちの身の回りにあるもの、そして私たち自身

折り鶴と同じ。

考えてみたら「当たり前の事」。

その当たり前が見えていないのが私たち。

忘れてしまうのが私たち。

考えることもしないのが私たち。

感謝しないのが私たち。

 

問われて、考えれば気がつけるのにね。

当たり前に見向きもしないで

「俺が」「私が」

 

もう一度問うてみます。

 

「誰がこの鶴、作ったの?」