はいっ坊主

坊主が気まぐれに日々のご縁をしるします

耳の痛い話

headlines.yahoo.co.jp

 このような記事がありました。

この記事のコメント、加えて他にもこの記事を取り上げておられる、いわゆるまとめサイトにもお邪魔して数々のコメントを読ませて頂きました。

言いたい事、反論したい事も多々ありますが、全体的に非常に耳が痛いお話ばかりです。

中には、他宗派に対するものだというものもあれば、色々と混同しておられるなというものもありましたが、それも全て踏まえて、「僧侶による、これまでのツケ」だと受け取らせて頂きました。

一般の方々の、厳しい声が物語るもの。

コメントのひとつひとつに「言い訳」をするのは簡単です。

しかしながら、これからの僧侶として課せられた役割は、真の御教えを一人でも多くの方に伝える事であって、「言い訳」をして訂正することではありません。

 伝える事ができていなかったからこそ、宗派や教義の混同が起きているのです。

末法だ、五濁だで片付けてはいけないことです。

他の誰のせいでもない、私たち僧侶の自業自得です。

そして、この場を借りて本山にも一言。

共にこの厳しいお叱りを、受け止めて頂きたいです。

 

 先日法要の席で、お坊さん方と話をしていた時、とある世間話から宗派の教義の話になりました。そんな中で、私が「三願転入ですね」と申したところ一人を除いて「???」。

思わず、その一人と顔を見合わせてしまいました。

専門家であるべきはずの僧侶がその状態です。

私が愛読していた料理人の漫画の中に

「親父さんの1の仕事は10に支えられた仕事。」

といった台詞が登場します。

正直申しまして、お経をあげることが出来るご門徒さんは大勢いらっしゃいます。

法要の席で、ご門徒さんも一緒に声を出しておられる姿を毎回見ております。

お経の本とお手本のCDでもあれば誰にでもできるような事です。

ところが、それしかしていない僧侶が、悲しいかな非常に多いのも事実です。

お経の中に何が書かれているのか、それを法然上人や親鸞聖人はどう受け止められたのか。いくつもあるお経を照らし合わせた時に起こりうる矛盾のようなものをどう解釈するのか等々、例えおおまかにでも把握してお経をよむ僧侶は少数派です。

 現在本山は「僧侶の質の向上」に取り組んでいるという話は聞いております。

しかし、その取り組み案は、大ハズレとは申しませんが、的中でもないように感じます。

以前

gutoku-en.hatenablog.comという記事を書かせて頂きました。

 昨今問題になっている「煽り運転」ですが、相変わらず煽り運転のニュースや体験者の報告は落ち着く様相を見せません。

彼らは講習を受け、筆記テスト、実技テストをクリアして免許を受けています。

彼らは責任あるドライバーとして適切ですか?

テストやそれによる資格は、「書けた」「出来た」を見ることしかできません。

極論を言えば、そんなものは後からどうにでもなるし、カンペを見ればできる程度の事です。

本当に根本的に見直したいのであれば、どうするべきかはおのずと導かれると思います。

本山である以上、末寺以上に先立って行動する必要があります。

繰り返しになりますが、共にお叱りを受け止めて下さるようお願いします。

 

 

 さて、お叱りの内容にも関連することですが、浄土真宗の坊さんってどういう位置付けなの?と聞かれる事があります。

浄土真宗では僧侶も含め「悪人」でありますから、全て「阿弥陀如来」におまかせします。

ならば、僧侶は何の為にいるのかというのは当然の疑問です。

人によって、答えは様々ありましょうが、私なりの考えをこの機会にお話させて頂こうと思います。

 

 私は、資格的には僧侶ですが、親鸞聖人のおっしゃったように「非僧非俗」です。

しかしながら、寺で僧侶として日暮らしさせて頂いております。

そんな私の僧侶としての要は、お経をよむことでも、儀式をすることでも、ご法話をすることでもなく「お念仏のご縁を繋ぐ事」だと考えております。

法話はその為の機会のひとつであることは間違いありませんが、そういうことではないのです。

 

 人々と接する中にある様々な機会に、共に悩み、共に考え、私と同じ悪人であることに気付いて頂き、阿弥陀如来のお念仏の御教えをお伝えして、御同朋、御同行として共にご縁をよろこび、共にお念仏申させて頂くのが私の考える浄土真宗の僧侶なのです。

 

そんな私は、好きな事を仕事にしています。

私は人とお話するのが好きです。

人と共に悩み考えるのが好きです。

そして共にお念仏のみ教えに触れ、笑顔を見ながら共によろこぶことが大好きです。

 

 これまでの僧侶人生の中で極少数ではありますが、私がお経をよむ後ろで笑顔で涙を流された方がおります。(勿論葬儀等は除いてです)

私とご縁があり、様々な話を楽しみ、共に様々な悩み事を共有され、お念仏の御教えをお伝えした方です。

念仏者としてこれ以上嬉しい事はありません。