はいっ坊主

坊主が気まぐれに日々のご縁をしるします

観測者により収束する

物理学の世界で有名な思考実験に「シュレーディンガーの猫」というものがあります。

聞いた事がある方も多いことでしょう。

簡単に言いますと、1時間の間に半々の確率で装置が作動して生物を殺してしまう箱の中に猫を入れ、1時間後の猫がどうなっているか?という事です。

物理学の世界では、これを重なり合った状態といってみたりするようですが、簡単に言えば「開けて見てみないとわからない」という事です。

つまり、観察する者がいて、初めて結果として収束するわけですね。

 

さて、この話に似た話が有名な落語の中にも登場します。

それが「てれすこ」です。

 

簡単にあらすじを申しますと

見たこともない魚が獲れたのだが、さっぱりわからないので

この魚の名前を知ってる者には褒美を出すとしたところ

これは「てれすこ」という名前ですと言う男が現れました。

しかし、役人をはじめ誰もが知らない魚なので、それが正解かどうかの判断ができません。

男はまんまと褒美を貰う事になりました。

しかし、どうも疑わしいということで一計を案じた奉行は

この「てれすこ」を干したものを、この魚を知ってる者は褒美を・・と

以前と同じような事をふれます。

すると以前「てれすこ」と言って褒美を貰った男が現れ

「これは”すてれんきょう”です」と言ったから大変。

これは以前てれすこと申したではないか!

と男は捕らえられて打ち首を言い渡されてしまいます。

男は最後に妻子に会わせて欲しいと頼み、やってきた妻に対して

「子供が大きくなっても、イカの干したものをスルメと呼ばすなよ」

と遺言を伝えます。

元々知らない魚のこと、こういわれてしまうと納得するしかありません。

男は無罪放免となりました。

 

この二つの話の何が似ているのかと申しますと

どちらも「観測者によって収束している」という点です。

シュレーディンガーの猫は、観測者が箱を開けて観察してみなければ

状態が確定しない。

てれすこは、観測者が正解かどうかを判断できなければ真実かどうか確定しない。

観測者があって初めて結果が成立しうる事です。

仮に、シュレーディンガーの猫の観測者が、実際の結果と間逆の結果を伝えたらどうでしょう?実験の結果は正しく伝わっていませんが、伝えられたものは学者先生が実験したことだからと鵜呑みにして真実として伝わってしまうでしょう。

てれすこの役人の一人が「それは間違いだ」と声を出していたらどうなっていたでしょう?

 

私たちが何気なく過ごす日常の中にあって

私たち一人一人はその「観測者」にほかなりません。

あの角を曲がった先に人がいるのか、男性なのか女性なのか。

曲がった先の店は今日営業しているのか、いつものおばちゃんが店番をしているのか。

先に通った知り合いから、「店のおばちゃんに声かけられた」と情報をもたらされていても、あなたが通るタイミングでもおばちゃんが店番をしているとは限りません。

私たちの何気ない日常の全てが観測者である私たち一人一人が観察してみるまで収束しません。

しかし、観察しなくても、世の中はちゃんと動いています。

自分が確信を持てないだけで、実際には瞬間瞬間の状態が常に存在しています。

否定もできなければ、肯定もできません。

しかし、観測者のあなたが否定しようが肯定しようが、なんらかの状態は存在しているのです。

それは、あなたが「いつも通り」と感じることかもしれませんし

「え?まさか??」と感じる事かもしれませんよ。

 

あなたが観察していないだけで、あなたの嫌いな人がとても親切なことをしている可能性をあなたは否定できますか?

あなたが観察していないだけで、あなたの身を案じている存在がいる可能性をあなたは否定できますか?

 

暗中模索を暗中模索するという事

暗中模索というのは、「暗闇の中で手さぐりで捜す事」

つまりは、見通しが立たない物事を色々と試しては探るという意味で使われている言葉です。

 

 この記事を読まれている方の中には、社会人の方も居られるかもしれませんし、学生の方も居られるかもしれません。

皆さん、勉学であったり仕事であったりに接していく中で「分からない事」に遭遇することは珍しい話ではありません。「分からない事」に接して「分かろうとして」も、「何が分からないのか分からない」なんて事も多々あることでしょう。

 今から20年近く前になりましょうか。

個人がホームページを作るという事が、静かに流行した時期がありました。

今ではブログ等に取って代わられておりますが、HTMLというホームページに用いられる言語を入力していったり、またはそれを自動的に行ってくれるソフトを用いて、多くの方々が様々なホームページを制作され、同じ方向性を持つホームページの管理者さん同士でリングなるものを作ってサーフィンの便利化を図ったり等々、当時を知っている方からすれば、「あぁあったあった」という懐かしいネタのオンパレードかもしれません。

 私自身もまた、当時とある解説講座的なホームページを作っておりました。

結構マニアックなジャンルのものであったにもかかわらず、毎日のアクセス数が1600件越えをしておりまして、同じジャンルのホームページを作って居られた方々が多くてやっと二桁アクセスという中にあって不思議がられたものです。

そうしますと、非常にたくさんの方々から「質問」を受けるようになってまいります。

設置した掲示板は質問で埋め尽くされ、メールでも質問がどんどん届きます。

専門雑誌にホームページが紹介されたりしていきますと、その数は日増しに増えていきました。

 そんな「質問」の中身ですが、ホームページ内でしっかりと解説済な事が非常に多いのです。また、掲示板で一つ二つ前の方と全く同じ質問をしていかれる方というのも非常に多いのです。

この現象は、私のところだけではなく、ジャンルを問わずにいたるところで見られた事で、始めは親切に回答されていた方でも「いい加減うんざり」するレベルで頻発しておられ、「一つ前ぐらい読め!」や「最低限調べてから来い」なんて言葉尻荒く対応されている様子を見たのも一度や二度どころか、何百度です。

 

 私はと言いますと、それは仕方ない事なんだと考えておりましたので、同じ質問でも回答したところへ誘導したり、同じ内容を答えたりとマイペースにやっておりました。

と申しますのも、「何が分からないか分からない」は誰しもが経験しているからです。

初めてのことでしたら尚更です。

カメラを始めようという方が居られたとして、コンパクトなカメラと一眼レフと何が違うの?カタログやら見てもFってなに?調べてみても被写界深度って何よ?

と次から次へと専門用語が飛び交い、「知っている人向けの情報しかないじゃないか」

と受け取られ初心者向けの解説は一体どうやって捜したものか・・・。

これが普通だと思うのです。

そんな中で、質問できる場に出会えた方の喜びやいかほどか・・・。

偶然であっても、因果関係があっても、そこに辿りつけた事を奇跡的と感じられている方だっているでしょう。

ですから、私は重複質問であっても、投げやりな回答を一度たりともしなかったのです。

 

 今回のタイトルにあります、暗中模索を暗中模索するという事がなんとなくお分かりいただけてきた頃と思います。

暗闇の中にあって、何かを探すのは大変ですが、その捜している何かが何かも分からないとあってはこれは大変です。

やっと手に触れたものがあっても、それが捜しているものなのか、ヒントぐらいにはなる物なのかすら分からないのですから。

 

 何年か前の話になりますが、「学校の勉強の方法が分からない」

という話を受けたことがあります。

これは珍しい話ではないと思います。

その方は試験に悩んでおられたようですが、「勉学についていけずに試験勉強以前に、まずはどうすすめたらよいのかすらわからない」という状態にあったようです。

まさに今回のタイトルですね。

私が提示させて頂いた回答は、まずは「勉強を三つに分け整理しなさい」というものでした。

1.覚えるしかない事

2.考えれば分かる事

3.1・2どちらか判断できない事

 

 これは私自身が身を持って経験した勉強法でした。

私の家系は親族一同声を揃えて言うことには典型的な理系脳家系らしく、「なぜ?」と考え答えを探る癖が私自身にもいつの間にか備わっておりました。

授業中でも「なぜ?」と考えて分からなければ、授業が進む中私はそこで立ち止まって考え続けており、気が付けば授業の後半聞いてなかった・・・というのが日常でした。

覚えるしかない事を「なぜ」と考えることは「学問」としては非常に有意義なことですが、「試験勉強」という目で見た場合には「時間の無駄」です。

一方、考えれば分かる事をすべて暗記していこうとすることもまた時間の無駄です。

あくまでも「試験勉強という目前に差し迫った状況下での話」ですよ。

そんな事があまりに日常でしたので、「先生!覚えるしかない事はちゃんとそうやっておっしゃってください!」

と抗議した記憶があります(笑)

話をもどしまして、

例えば、「1192年(1185年)に源頼朝が開いたのは?」

これを暗記抜きに導くのは大変です。

なぜ鎌倉なの?幕府ってどうしてそう命名されたの?

時間の無駄でしょう?

もう一つ「体積30立方センチの物体を水に沈めた時の浮力は?」

浮力=押しよけた水の重さ(アルキメデスの原理)

これを試験中にいくら考えてもでませんよw

なので、アルキメデスの原理は暗記するしかない事です。

しかし、そこから先はこれを元に考えれば分かる事です。

 

3に関しては、どちらの要素もあるのだという姿勢で臨みます。

本格的に時間を割くのは3だけというわけですね。

その後、その方の勉学がうまくいったのかどうかは、続報を聞かせていただけておらずに分からないままですが、良い方向へのアドバイスとなっていてくださればと願うばかりです。

 

 こんな話のついでに、私自身未だによく分かっていない試験スタイルの一つが「暗記」なのですが・・・。

例えば、会社の製品をプレゼンする際に、製品の仕組みや機能、従来・ライバル製品との差異に関しては熟知しておく必要があります。しかし、それに用いられたパーツの名称や特許の番号や・・・はメモして持っておけば充分ではないでしょうか?

歴史でいえば、時代の移り変わりと背景、その中で起こった事件であったり出された法令であったりという事は理解しておく大切さがわかります。

今後の私たちへの教訓となる事も多いでしょうし、先人たちのご苦労を知り、現在に生きる私たちへと繋がることで、私たち自身を知る事にもなります。

しかし、細かな年号や元号、単語はメモで良くないですか?

と申しますのも、逆の方を非常に良く見るのです。

受験を乗り越え、年号から法令までばっちり答えられるのに

「じゃあどんな背景があってその法令を出すことになったの?」

「それはその後の歴史でどういう影響を及ぼしていくことになるの?」

と聞くと答えられない方・・・。

歴史なら歴史という科目の意義を考えると、これでいいのかな?なんて思ってしまうわけです。

先の例で言いますと、私の世代が試験で鎌倉幕府が開かれた年で1185年と書いたら×でしたよ。

今では1192年と書くと×です。

所詮その程度でしかない暗記の内容を「暗記」して「成績や進路」を左右する因の一つとしてまで重要視し、肝心の意義はおろそかにされてる今の試験のあり方が不思議でならないのです。

 

何をもって「本とせられ候」なのか・・・。

勉学に限らず様々なところで見直さないといけない事が多いのではないでしょうか?

なんとなく惰性的にであったり、良く考えずにであったりで、今後もこのまま要を外していくのであれば色々と心配な部分がございます。

今はまだ、暗中模索を暗中模索している段階であるだけならば良いのですが・・・。

 

 

透明である理由

 最近、スーパーやコンビニ等で飲料を見ていると、無色透明なもののラインナップの豊富さが目に留まります。

正直に申しまして、例えば紅茶は、あの茶色だからこそ美味しそうに見えるのであって、透明の紅茶という時点で、美味しくなさそうに思えてしまいます。

透明なのに、ちゃんと紅茶の味がする・・・という面白さはあるかもしれませんが、それは最初の一度だけで、果物系の飲料、コーラ等の炭酸飲料、果てはコーヒーまで透明というのは、流行を通り越してやりすぎを感じてしまいます。

 

 この透明飲料がこれだけ出た理由の一つに、公務員の方々の声があるという話があります。

多くの方は、そんなことは言わないと思いますが、一部から厳しい声があるのだそうで、例えば仕事中にコーラ等で水分補給をしていると苦情がくるのだとか。

私としては、その時点で理解に苦しんでしまうわけですが、知り合いの公務員の方々のお話を伺っておりますと、実際にそういった苦情が寄せられるようです。

「経費で買うわけではないのでしょ?」

と訊ねますと、勿論自分の財布から出していると答えます。

それでも、水じゃないと苦情の対象になるのだとか。

なにが問題なのか、私にはさっぱり分からないのですが、彼らも同じく分からないけれど苦情が来るからそういうお達しが出ていると言います。

 

 一旦、一般の企業に話を移しましょう。

今年は特に暑い年になっておりますが、例えば、営業職の方が、暑い中汗を流して営業をしています。そんな中、自販機でジュースを買って一息入れつつ水分補給を行っています。

それを見た人は

「けしからん!」

とは言いません。

多くは、ただの夏の風景でしかなく、気にかける人でも「暑い中大変だね。」という反応でしかありません。

しかしこれが、公務員だと途端に苦情に変わるわけです。

 

 先日、庭木の手入れをしたあと、境内で枝葉を燃やしておりました。

その日も暑い日でしたが、火を扱うわけですから、目を離すわけにはまいりません。

汗が滝のように流れ出て、巻いたタオルもあっという間に絞れるようになっておりました。

熱中症の話もありますし、こまめな水分補給をするべく消費したペットボトルは3本にもなりました。

そんな中、地元の消防署の職員の方々が、消火栓の点検にまわってきました。

暑い中、熱を吸収しやすい紺を基調とした長袖の制服を着て、汗を流しながら点検にまわっております。

「火には充分気をつけて下さいね」

私への声かけも元気よくきびきびと境内の脇の道沿いの消火栓を点検して、次の消火栓へと歩いていかれました。

もう少しのんびりと会話できるような動き方でしたら、冷たいお茶をさしあげたかったのですが、早足で颯爽と移動していかれ、その機会を失してしまったわけですが、彼らは確認できた限りでは、ペットボトルどころか水筒一つもっておりませんでした。

もし彼らが自販機でジュースを買い休憩をしていても、私は「当然」の事として受け取ります。むしろ、休憩して当然と考えると思います。

公費でジュースを購入してというのであれば、百歩譲って分からなくはありませんが、そうではなくても認められない環境。

どう考えても理解できないのは私だけでしょうか?

 私個人の考えで申しますと、消防隊員は、緊急の際には何を差し置いてでも駆けつけ対処しなければならない方々です。その間、休憩もとっていられません。

しかし、彼らのそういった活動があるからこそ、私たちの安全が保たれるわけです。

救急車を呼んだのに、救急隊員が熱中症で動けませんでは話にならないわけです。

ですから、平素からいざという時に備えていつでも動けるように万全の健康状態を維持しておくこともまた、大事な職務のひとつなのではないのかと思うのです。となると、そのために必須である水分は公費でまかなわれて当然ではないのか?とさえ考えています。

それが、自費であっても駄目という理由は何でしょう?

一度苦情を申す方にうかがってみたいものです。

 

 ある日、そんな話をしておりましたところ、公務員の給料は税金から出ているから駄目なのだというご意見がある事を聞きました。

正直申しまして、全く分かりません。

 例えば、必要以上に公費を使って、必要以上のエネルギーをがぶがぶと摂取しているのであれば、その苦情は当然でしょう。

しかし、先ほども申しましたように、必要なものを必要なだけ摂取して頂くのは、「私たち自身の為」でもあるわけです。公的機関である必要があり、私たちの安全の為に、私たちができない事を、担って頂いているのですから、まさに税金の出番だと思うのです。

彼らは、危険な状況にも対応できるように、日々の訓練を欠かしません。

時間があればトレーニングをします。緊急時に支障をきたさないように、旅行に行くにも申請しなければいけません。

まさに緊急時のプロフェッショナルです。

どこの一般企業に、勤務中、勤務時間外まで常に会社の為に供えて、時間があれば、自ら厳しいトレーニングをしている人がいましょうか?

ただただ頭の下がる思いが致します。

 

 先ほど、ネット上で少しニュースを見ておりましたところ、部活動への教師の負担を減らすというニュースがありました。

これは教育の現場の方からの声を何度も聞いている私としては、「遅い」というのが率直な感想だったわけですが、ネット上につけられたレスに目を疑いました。

過度な指導による危惧に関するご意見はごもっともな部分も多いのですが

部活動が必要ないというご意見。

教師を罵倒するようなご意見。

オンパレードです。

部活動は学校が主宰する必要はなく不必要で、やりたければ各自で団体に所属したり習いに行けばよいというわけですが、そもそも、習い事等をするには経済的な負担が生じます。それらは安価なものからかなりの高額になるものまであります。

全ての家庭でそれが可能であるわけがありません。

しかし、部活動であれば、学校側から備品を貸してもらって取り組む事もできますし、月謝というものもありません。

部活によっては部費を集める場合もあるでしょうが、月謝の比ではありません。

まず部活動には、そういった「子供のやりたい事を学ぶための機会である」という面がある事を忘れてはいけないと思うのです。

また、部活動という枠組みでの同年代が集う場での活動であるからこそ学べる事も多々ありますし、そんな中から成長していく面も多々あります。

勉学が苦手な子が、部活動をがんばって進学の助けになる事もありますし、中には将来へとつながるご縁となっている場合もあります。

私の知っている方にも何名か、部活動で始めたことを続けてプロになられた方がおります。

それを、教師の負担が増えていて、事故もあるぐらいなら不必要とは少し短絡的ではないか、厳しく言えば、面倒事の放棄と思うのです。

人のやることですから、時に事故もあるでしょうし、過度な指導等が原因で取り返しがつかない結果になってしまうこともあるでしょう。

人が火を扱えば時に危険なこともあります。過度な注文によって管理があまくなり火事になる事もあるかもしれません。

なので、飲食店は不必要です。

とはならないでしょう?

そういった事故を起こさないためにどうしたらよいのか

充分に検討し対策した上で、将来を見越して取り組む事が大事だと思うのです。

 

 次に教師への罵倒に関してですが、これは論外です。

あまりに思慮がなさすぎます。

教師の朝は早いですよ。子供達の中には、保護者の朝が早かったり等、様々な理由で登校完了よりかなり早く登校してくる子達がいます。その時には学校は開いていなければならないのです。よくみかける「挨拶運動」や「交通安全週間」なんかをしているときは、さらに早いです。

知り合いの教師には4時半頃に起きて、5時半には学校に行くという方がおります。

学校で配られるお知らせのプリントやお手製のテスト、参考資料をまとめたプリントから掲示物まで、授業時間以外に先生がせっせと作っています。もちろん、授業計画、テストの採点から成績などの集計、提出物のチェック、健康診断があればその集計、職員会議にPTA会議、他校との情報交換会や連動。教育委員会とのやりとりや保護者の対応。日誌、報告書。部活指導もして、補導員として夜遅くまで警察と連絡を取りながら見回り。

学校に戻って、授業の準備や事務処理。そんな夜中にも保護者から電話がかかってきて対応。「家に帰るのは、早くても日付が変わる。忙しい時は2時間も寝られない日が続く」なんて笑っておっしゃっている知り合いの教師の言葉が脳裏をよぎります。

これで、残業という概念そのものがないのですから驚きです。

 

 ところが昨今、世間の教師のイメージはひどいものです。

しかし、そんな教師ばかりどころか、1割でもそんな教師がいてごらんなさい。

そんな教育の現場が機能すると本気で思いますか?

現在、ほぼ全ての教育の現場は機能しているんです。

それがどういうことか、考えるまでもなくわかることでしょう。

どんな企業であっても、問題を起こす人が出てくることはあります。

教師や公務員は、公的な機関である以上目立ちます。

メディアからも注目されやすくなります。

しかしながら、ちょっと考えれば、現実は世間のイメージとはかけ離れたものであることぐらい想像にたやすいと思うのですが如何でしょうか?

 

 では、話を戻しまして、そんな教師の部活動の負担は相当なものです。

安全に気を配り、他校との連携、試合や発表会ともなれば手配から移動まで顧問の仕事です。朝練だといえば、それに合わせて準備して出勤しますし、放課後も仕事が残っているからという理由は通じるはずもなく指導に赴く。部員からの相談や個別の指導は勿論、部内の雰囲気にも気を配る。

時に教師が指導者としての経験を経ていない部活の顧問に抜擢されれば、新たに勉強したり、他の指導者に習いに行ったり。

これを読まれた方は、もうお分かりのことと思いますが、これらは外部からは見えないかもしれませんが、考えてみれば当然そうやっているからこそ機能しているのです。

それらの負担が全て教師が背負っていると考えると、そのご苦労は相当なものです。

地域によっては、地元の方が指導の手伝いに来て下さる事もあります。

私が剣道をしていた頃にも、地元の少年剣道の先生方や剣道をしていた保護者方が空き時間を見つけては指導しに来て下さっておりました。

とはいえ、もしそこでなにか事故でもあれば、責任は顧問にいくわけですから、顧問の先生はお手伝いの方々に任せきってしまうわけにもまいりません。

そして先生としては、そういう中でも頑張って取り組む子供たちに、勝たせてあげたい、賞をとらせてあげたいと願うものです。

行き過ぎた指導はいけませんが、そんな多忙な中でも放棄せずにそう願う事というのは指導者としてはすばらしい事だと思います。

 

 さて、長々と書き綴ってしまいましたが、以前のブログにも書きましたように、私としては、「考える」ことをしていただきたいと思うのです。

考えることは、色々なことに思いを馳せることです。他に目をやり、他を思いやり

そして自分を見つめることにもつながることです。

願わくば、これ以上思いやりのない理由を背負った透明な飲料が増えないことを。

「1+1」はいくつ?

一見簡単そうな計算の問題です。

「1+1」はいくつですか?

「-1-1」はいくつですか?

 

 

 多くの人は、「1+1=2」、「-1-1=-2」とお答えになるでしょう。

それは、今現在の学校の算数や数学の答えとしては正解かもしれません。

出題者の意図と、回答者の意図が一致していますからね。

しかし、

「いついかなる場合にも、この計算式は成立しますか?」

と聞かれたら、あなたはどう答えますか?

 

この式の「1」とは何ですか?

面積ですか?質量ですか?個体数ですか?etc・・・・

 例を出してみましょう。

卵を2つ使って卵焼きを1つ作りました。

卵の個数で考えれば1+1=あれれ?

「2個分じゃないか?」

と考えた方、殻が減る分はどうしますか?

重さで考えれば・・・

やはり同じです。

卵が全く同じ重さとは限りませんし、殻や殻に少しのこった白身。

油や味付けにつかった塩などの兼ね合いもでてきます。

このお話を「屁理屈だ」と片付けるのは簡単です。

私自身が、屁理屈とも取れる事など百も承知で書いておりますからね。

では、同じ料理の世界でこんな事を言われます。

昆布の出汁と、鰹の出汁が合わさると、その美味さは2倍どころか何十倍にもなる。

屁理屈だと思う方は、このことを計算式で表してみてください。

算数や数学というのは、あくまでも、分かり易い概念を定義して、初めて成立するものでしかありません。

 

「-1-1」についても考えてみましょう。

-1ってそもそも何ですか?

負という概念がいついかなるときにも成立するならよいですが、これもまた成立はしません。

マイナスというものの説明を、私たちはまず上手くできません。

桃太郎電鉄なんてゲームがあります。

サイコロを振って目的地を目指す双六ゲームですが、目的地にぴったり到着できないと、通り過ぎてしまいます。

これは足し算?引き算?

では、それを仮に引き算としましょう。

またオーバーしてしまって、逆側にきたらこれは足し算ですね?

では、目的地で別の方向に通り過ぎたらこれは何算ですか?

つまり、マイナスをベクトルだと考えるのであれば、では、マイナスでもプラスではない方向のベクトルはどうやって表しましょうか?

この矛盾を解消するべく、直線上にのみ成立しうるベクトルだとしましょうか。

この時点で桃太郎電鉄のいくつもの駅の存在を否定してしまいますが・・・。

それを見逃したとして・・・

畑に植えた大根を、成長のために間引きます。

結果、より大きな大根を得ます。

大根にしてみれば、より大きなスペースを得ます。

間引いた大根は漬物にするなどして決して間引いた瞬間に消滅はしません。

さぁ直線上のベクトルで説明してみてください。

時間経過や成長という概念は反則ですか?

私に言わせれば、そんな瞬間のがんじがらめの条件でしか成立しない事をもって

「数学とはなんぞや」問答していることのほうがよほど滑稽です。

成立するものには成立するが、しないものも当然ある。

これが現実でしょう。

 

 世の中にある様々な事柄は、常に複雑です。

算数がいついかなる場合にも通用しているわけではないことを

皆さんは充分経験されているはずです。

しかし、それでも私たちは「算数」をとても大事にします。

わからない子がいたら、分からせようと躍起になります。

みなさんの中には、この算数のように

いつの間にやら絶対的な存在として崇められてしまっているもの

他にはありませんか?

「カレーの具は大きく切るに限る」

「この仕事をこなすにはまずこの書類から」

「野菜は体にいい」

「塩分は敵」

「どこそこの店は・・・」

「○○さんは・・・」

などなど・・・

 

もう一度問いましょう。

「1+1」はいくつですか?

 

 

雪の静けさ

雪と聞くとどういうイメージをお持ちでしょうか?

「寒い」「雪かきが面倒」「自分の地域ではあまり降らないから寂しい」

「ロマンチック」「ウインタースポーツ」等々

それぞれに様々なイメージをお持ちの事と思います。

 

 私の住む地域では、毎年雪が降り積もります。幼い頃には、待ち焦がれて楽しんだ雪も、いつしか「面倒なもの」へと変わっていきました。

雪かきの重労働、雪道の運転、年に二度のタイヤ交換(家族の分も)・・・。

冗談交じりに「雪はスキー場にだけ降ればいい」なんて言ったりもしています。

 

 そんな雪ですが、人間の勝手な都合が良くても悪くても、条件さえ整えば降るのが当たり前のものです。頭では分かっていても、ついつい「あぁ・・・積もるなぁ・・・」なんて考えてしまうところが、間違いなく悪人な人間ですね。

 

 さて、風が殆どない雪が降り積もる夜中に、窓を開けてみた事がある方はどのぐらいいるのでしょうか?

換気の為に開けた事があるよという人もおられると思いますが、しばし雪の降る空間をじっくり感じた事があるという人は、あまり多くはないと思います。

雪というのは、雨等と違い、限りなく音を立てずに降り積もります。

そして、その気候的な特徴から、野生の生物は静かに身を潜めます。

降り積もった雪は、柔らかくもたくさんの空気を内部に抱えて、吸音材のような役割をはたし、人間の出す音をどんどん吸収してしまいます。

夜中ともなれば、その状態を顕著に感じ取ることができます。

 

 虫の声、蛙の声、野生の動物や鳥が出す声や音。

それにくわえて、夏場等には、少し離れた所に走っている高速道路を走る車の音がしっかりと聞こえてきますが、それさえ聞こえません。

ただただ静寂の空間がそこに広がります。

その空間で耳をすませておりますと、「シーン」とは良く言ったものだと感心する音の世界がありますが、しばらくすると、気圧の関係や体調の関係で聞こえる事がある「ピーン」という音を限りなく小さくしたような音に気が付きます。

それが自然が発している音なのか、自分の耳で鳴っている音なのか、それは私には分かりません。

ただただ小さく「ピーン」と聞こえ、そこに意識を集中しすぎて、いつしか息を止めていた事に気が付き、ふと呼吸をします。

ピーンという音に、普段は感じない自分の普段の状態での呼吸音がそれに混じります。

体を動かすと、布がこすれる音もしっかり聞こえてきます。

 

 本当になんでもないその静寂の時間に気がついたのは、私がまだ小学生の頃でした。

風のない雪の夜中、そんな時間には、今でもふと窓を開けて、その静寂という名の音の世界を楽しむのが好きです。

いつしか寒くなり、窓を閉めると、そこは途端に俗世の音の世界になります。

そんな中で動き出す暖房の音の後ろで、あの静寂の音が聞こえているような気がして少し名残惜しさを感じると同時に、人間として生きているのだという実感がひしひしと感じられます。

様々な生命が、それぞれに様々な思いの中で生きている世界であることを感じます。

何故かは、わかりませんが、静寂の世界に、穢土にはないものを感じているのかもしれませんね。

 

 現在外には雪が積もっています。

その中で、私の雪のささやかな楽しみ方をしたためてみました。

本の値段

厚さ1センチ程度しかない無名の作者の本のお値段が2000円。

これを高いと思いますか?安いと思いますか?

 

インターネット上を見ておりますと、同じような話題をあちらこちらで見かけます。

良く見かける意見風に、この質問に答えてみます。

「同じようなサイズの本でも、数百円で売られているものもあるから高い」

「無名の作者が、有名な作者よりも高いのはおかしい」

多く見かける意見はこんなところでしょうか。

 

 さて、この意見を見てどう思いますか?

一見すると、ごもっともな意見に見えますが、その実はどうでしょうか。

 

 まず、本を商品にするまでに、多くの人が携わります。

編集をする人、印刷や製本する人・・・。

当然ですが人件費が発生します。

また、紙やインク代といったコストもかかります。

これらの経費が出せないのであれば、本は商品になりません。

個人や出版社といった所が、この経費を負担し、後々売り上げによって回収することになります。

そして、経費を上回ったものが利益となるわけですが、その利益から

商品となった後に携わった人や作者の収益が生じます。

わざわざ書かなくても、皆が分かりきっていることですよね。

 

 では、数字が大きすぎて混乱を招くといけませんので現実よりも少ない数で例えてみましょう。

まず、業者が請け負ってくれる最低印刷数でもある、1000冊あたりの経費が合計10万円だったとしましょう。

3000冊以上発注の場合には1000冊当たり8万円にできます。

A出版の無名さんの本は、売り上げの見込みが200冊です。

B出版の有名さんの本は、売り上げの見込みが5000冊です。

 

A出版無名さんの本は、500円で見込みどおり売れてやっと元が取れます。

無名さんの生活や出版社の利益を考えると、あれよあれよと2000円ぐらいで売るしかなくなります。

同時に在庫800冊を背負ってしまいます。

その結果得られる利益は30万円です。

一方のB出版有名さんの本は、80円で見込みどおり売れれば元が取れてしまいます。

500円で売ったとしても、見込みどおり売れれば210万円の利益を上げる事ができます。

 

 これが、考えて見れば当たり前な、高い本、安い本のメカニズムの基本です。人気のある作家やジャンル、宣伝力のある出版社や売り上げ見込みが確実に見込める市場を持っているといった背景があれば安くなりますが、専門書などの売り上げ見込みが厳しいもの、無名の作者や不人気の作者といった場合には、どうしても値段を高く設定するしかなくなります。

もしA出版無名さんの本を、B出版有名さんと同じ値段にしたとしたら、商品となった本によって利益を得る人は誰もいない、無名さんも宣伝等に関わった人も流通に関わった人も皆タダ働き、人によっては赤字になってしまいます。

それでも、A出版無名さんはB出版有名さんと同じ値段まで下げなければなりませんか?

 

 では良く見かけるご意見をもう一度みてみましょう。

「同じようなサイズの本でも、数百円で売られているものもあるから高い」

「無名の作者が、有名な作者よりも高いのはおかしい」

改めて、この意見をどう見ますか?

 

消費者の個人的な立場から見た場合、予算との兼ね合いであったり、類似した本の有無であったりといった様々な事情から

「高い」と判断する事も当然あるでしょう。

なので、2000円の本を高いと言う人が大勢いても何もおかしくありません。

実際にお財布から出て行く金額は無名さんの本の方が多いですからね。

しかし、他に安い本があるから高い、無名なのに高いという意見には違和感を覚えませんか?

もしあなたが、A出版や無名さんの立場だったら、この意見がどう見えますか?

むしろ、B出版有名さんの本が1000円(利益460万)で売られていたら、視点によっては、そっちの方があくどいと思いませんか?

2000円を高いと思う人は買わないですし、その価値があると思う人は買うでしょう。

それで良いのではないですか?

 

 今回の記事は、考えてみれば当たり前の事しか書いていませんが、世の中にはその当たり前を見落としてしまっている人が少なからず存在していることを感じませんか?

 

 身近なところですと、スーパーへ買い物に行った時の値段や、近所のケーキ屋さんのケーキのサイズと値段など・・・。

チーズケーキがA店では350円なのにB店は少し小さいのに430円もする!

高い安いを感じる事、買う買わないは個々の事情があって当然です。

B店はA店より小さいケーキを高く売っていて損。

なんて考えてしまったことはありませんか?

井戸端会議中に、「あの店は高い」なんて話題にしてしまったことはありませんか?

もしかしたらA店はコスト100円で売値350円、B店はコスト250円で売値430円かもしれませんよ?

もしそうだとしたら、安い材料で大きめの利益を被せている店を褒めて、質の良い材料を使い低い利益でがんばっている店を批判しているのかもしれませんよ。

 

 もう少しつっこんでみましょうか。

出版社や作者が値段を設定するのと同じく、私たちが普段何気なく行っている発言や行動等には一つ一つに背景があります。

悪気はなくても、迷惑をかけてしまう事もあれば、何もしていないつもりが、お礼を言われるようなこともあります。

値段設定の例ように、そうするしかなく行動することも多いでしょう。

同じような状況で、Aさんのとった行動、Bさんのとった行動には違いがあって当然ですが、Aさんの行動はすばらしくて、Bさんの行動は残念な結果になるようなこともあるでしょう。

そんな二人をみて、あなたは何を思いますか?

背景を知ったら違和感を覚えてしまうような事を思いませんか?

 

 私が子供の頃、近所の子と二人で学校からの帰り道でした。

季節は丁度冬で、道の脇には数十センチの雪が硬くなっておりました。

友人はその雪の上を歩いていて、突如太ももまで埋まってしまいました。

助けようとしますが、雪が硬くて掘れそうもありませんし、ひっぱっても抜ける様子がありません。

丁度テレビで凍傷の事を知ったばかりの私は、不安になり友人に待つように言い残し友人の家へと走りました。

友人の家につき、友人の祖父に事情を話すと

「置き去りにして一人で帰ってきたのか!」

と怒鳴られました。

この話からは、私自身にも、友人の祖父にも反省すべき点が伺えると思います。

あなたが私の立場だったらどう行動しますか?

あなたが友人の祖父の立場だったらどう行動しますか?

あなたが事情を知った第三者だったらどう見ますか?

(ちなみに友人は怪我ひとつなく無事でした)

 

 私たち人間は、目立つもの、表面的なもの、自分勝手な思い込みや価値観に捉われて、視野が狭くなっていることに気が付かない癖があるというお話でした。