はいっ坊主

坊主が気まぐれに日々のご縁をしるします

善人と悪人

「あなたは善人ですか?悪人ですか?」

 

 まずはどちらなのか考えてみてください。

とりあえず前科はないし・・・人並みに親切もしてるし・・・

どちらかといえば善人かなぁ?

なんて人も多い事でしょう。

 

西遊記」を知っていますか?

多くの方が知っていると答えると思います。

あのお話の最初の部分を覚えているでしょうか?

悟空が、お釈迦様と勝負をします。

金斗雲にのった悟空が、猛スピードで地の果てまで飛びますが

そこにあった柱はお釈迦様の指で、悟空の負けというお話です。

 

 このお話、調子にのった悟空をお釈迦様が懲らしめる話

と考えている人が多いと思います。

でも、私はそれだけではない話なのだと考えています。

悟空は、「自分の力」を信じて疑わず、「自分の力」で何でも出来る

と思っています。

しかし、その「自分の力」を正しい目で見たときに

所詮「勘違いの力、幻の力」だと思うわけです。

お釈迦様は、お釈迦様として描かれてはいますが

「世の真理」の象徴として描かれているのではないかと考えるわけです。

 

 私たちが普段「自分の力」で行っていると考えている様々な事

それらは所詮は砂の楼閣にすぎません。

どんなに綺麗に掃除しても、すぐに汚れます。

どんなに雨風を防いでも、雨風を止めることはできません。

どんなに様々な物を作っても、時間、事故、災害はもちろん

些細なきっかけを前にしても破損します。

雨が降ることもあれば、風が吹くこともある。

どんなに頑丈な岩も割れることもあれば、薄い紙が予想以上に長持ちすることもある。

自然、社会、人の心理など様々なものが複雑に絡み合って「今」があります。

ついつい忘れてしまっていますが、それらはいつだって

当たり前につきまとうものです。

 

 気が付かずに蹴飛ばした小石がきっかけで、めぐりめぐって誰かが怪我をするかもしれません。

親切心からやった事で、誰かが不快な思いをすることもあるでしょう。

誠心誠意真面目に生きているつもりでも、誰かに利用されたり、はめられたりすることもあるでしょう。

 

 こうしておけば、”必ず”こういう結果になるという事は

世の中にただのひとつもありえません。

なる事が多い、場合によっては限りなく100%に近いことはあっても

絶対はないでしょう?

どんなに気をつけていても、風邪をひいてしまうことだってあります。

気をつけていないよりは、はるかにマシでしょうが、絶対ではないんです。

目の前で磁石のS極とN極を近づけるような一見確実そうなものであっても

外的要因でその行為が未遂に終わることだってあるでしょう。

勉強をすれば、それは絶対に成果になる?

明日の命がある保証がどこにありましょう?

 

 悟空がいかに力(自称)を持っていても、お釈迦様(真理)の前には無力であるのと同じで

私たち人間が、いかに「自分の力」を信じてみたところで

それは「絶対にあらず」なのです。

だからといって、努力は無駄だとか、何でもかんでも諦めろと申しているわけではありません。

より良いものを求めるのは人間の自然な姿です。

そのために努力して確率を上げるのもとても大切なことです。

ただ、「人間は真理の前には無力である」事を同時に知っておくのもまた

大切な事だと思うのです。

 

 よかれと思った事で、誰かを傷つけることもあれば

気を緩めた時に取り返しのつかないような事をしてしまうことだってある。

きっかけさえあれば、知らない間に罪に加担していることだってある。

時には悪い事をしてしまうことだってある。

そんなありとあらゆるものに翻弄されて定まらない私たちの事を、仏教の世界では

『悪人』

と言います。

 

 普段使っている「悪人」は犯罪者のような意味を持っていますが

仏教の世界では、法律に触れたかどうかという人間の作った枠組みでは考えません。

私も悪人、あなたも悪人、周りの人みんな悪人なんです。

だからこそ、何かしたわけでもない事で苦しい思いをする事もあれば

棚から牡丹餅のような事もあるのです。

悪い事をした人だから悪人ではなく

条件(縁、因果)さえ整ってしまえば、意志があろうとなかろうと悪い事をしてしまうような不安定な存在である人間を悪人としているのです。

 

 これまでの人生、自分の知っている範囲、知らない範囲も含めて

ただの一度も悪縁を作った事がないと断言できる人がいますか?

 

それでは、最後にもう一度問いましょう。

 

「あなたは善人ですか?悪人ですか?」

折り鶴

折り紙で鶴を折ってみて下さい。

折り鶴を前にしたあなたにクイズを出しましょう。

 

「誰がこの鶴、作ったの?」

 

 

「私が折って作った」

と答えたあなたは、僅かに正解です。

 

「間違いなく私が自分で折った鶴だ」

そう考えるのは極々自然な事でしょう。

では、問いをこう言い換えてみましょうか。

 

「なぜあなたはこの鶴を折れたのでしょうか?」

 

折り方を知らずに折れますか?

あなたに鶴の折り方を伝えた人がいるはずです。

その人に折り方を伝えた人がいるはずです。

その人に・・・。

 

紙がなくても折り紙ができますか?

紙を作った人がいるはずです。

紙の作り方を伝える人がいるはずです。

紙を発明した人がいるはずです。

 

そこに折り紙がなくても折り紙で折り鶴を折れますか?

折り紙を売ってくれた人がいるはずです。

折り紙を流通させてくれた人がいるはずです。

折り紙を商品にした人がいるはずです。

 

たった一つの折り鶴ですが

ここには書ききれるはずもない多くのご縁があって

初めてあなたが折り鶴を折るという過程の仕上げ作業ができたにすぎません。

折り方を伝えた人も

紙を作った人も

折り紙を売ってくれた人も

目の前にある折り鶴を折る為には欠かせない存在。

彼らもまた、その折り鶴を作った人。

 

私たちの身の回りにあるもの、そして私たち自身

折り鶴と同じ。

考えてみたら「当たり前の事」。

その当たり前が見えていないのが私たち。

忘れてしまうのが私たち。

考えることもしないのが私たち。

感謝しないのが私たち。

 

問われて、考えれば気がつけるのにね。

当たり前に見向きもしないで

「俺が」「私が」

 

もう一度問うてみます。

 

「誰がこの鶴、作ったの?」