はいっ坊主

坊主が気まぐれに日々のご縁をしるします

透明である理由

 最近、スーパーやコンビニ等で飲料を見ていると、無色透明なもののラインナップの豊富さが目に留まります。

正直に申しまして、例えば紅茶は、あの茶色だからこそ美味しそうに見えるのであって、透明の紅茶という時点で、美味しくなさそうに思えてしまいます。

透明なのに、ちゃんと紅茶の味がする・・・という面白さはあるかもしれませんが、それは最初の一度だけで、果物系の飲料、コーラ等の炭酸飲料、果てはコーヒーまで透明というのは、流行を通り越してやりすぎを感じてしまいます。

 

 この透明飲料がこれだけ出た理由の一つに、公務員の方々の声があるという話があります。

多くの方は、そんなことは言わないと思いますが、一部から厳しい声があるのだそうで、例えば仕事中にコーラ等で水分補給をしていると苦情がくるのだとか。

私としては、その時点で理解に苦しんでしまうわけですが、知り合いの公務員の方々のお話を伺っておりますと、実際にそういった苦情が寄せられるようです。

「経費で買うわけではないのでしょ?」

と訊ねますと、勿論自分の財布から出していると答えます。

それでも、水じゃないと苦情の対象になるのだとか。

なにが問題なのか、私にはさっぱり分からないのですが、彼らも同じく分からないけれど苦情が来るからそういうお達しが出ていると言います。

 

 一旦、一般の企業に話を移しましょう。

今年は特に暑い年になっておりますが、例えば、営業職の方が、暑い中汗を流して営業をしています。そんな中、自販機でジュースを買って一息入れつつ水分補給を行っています。

それを見た人は

「けしからん!」

とは言いません。

多くは、ただの夏の風景でしかなく、気にかける人でも「暑い中大変だね。」という反応でしかありません。

しかしこれが、公務員だと途端に苦情に変わるわけです。

 

 先日、庭木の手入れをしたあと、境内で枝葉を燃やしておりました。

その日も暑い日でしたが、火を扱うわけですから、目を離すわけにはまいりません。

汗が滝のように流れ出て、巻いたタオルもあっという間に絞れるようになっておりました。

熱中症の話もありますし、こまめな水分補給をするべく消費したペットボトルは3本にもなりました。

そんな中、地元の消防署の職員の方々が、消火栓の点検にまわってきました。

暑い中、熱を吸収しやすい紺を基調とした長袖の制服を着て、汗を流しながら点検にまわっております。

「火には充分気をつけて下さいね」

私への声かけも元気よくきびきびと境内の脇の道沿いの消火栓を点検して、次の消火栓へと歩いていかれました。

もう少しのんびりと会話できるような動き方でしたら、冷たいお茶をさしあげたかったのですが、早足で颯爽と移動していかれ、その機会を失してしまったわけですが、彼らは確認できた限りでは、ペットボトルどころか水筒一つもっておりませんでした。

もし彼らが自販機でジュースを買い休憩をしていても、私は「当然」の事として受け取ります。むしろ、休憩して当然と考えると思います。

公費でジュースを購入してというのであれば、百歩譲って分からなくはありませんが、そうではなくても認められない環境。

どう考えても理解できないのは私だけでしょうか?

 私個人の考えで申しますと、消防隊員は、緊急の際には何を差し置いてでも駆けつけ対処しなければならない方々です。その間、休憩もとっていられません。

しかし、彼らのそういった活動があるからこそ、私たちの安全が保たれるわけです。

救急車を呼んだのに、救急隊員が熱中症で動けませんでは話にならないわけです。

ですから、平素からいざという時に備えていつでも動けるように万全の健康状態を維持しておくこともまた、大事な職務のひとつなのではないのかと思うのです。となると、そのために必須である水分は公費でまかなわれて当然ではないのか?とさえ考えています。

それが、自費であっても駄目という理由は何でしょう?

一度苦情を申す方にうかがってみたいものです。

 

 ある日、そんな話をしておりましたところ、公務員の給料は税金から出ているから駄目なのだというご意見がある事を聞きました。

正直申しまして、全く分かりません。

 例えば、必要以上に公費を使って、必要以上のエネルギーをがぶがぶと摂取しているのであれば、その苦情は当然でしょう。

しかし、先ほども申しましたように、必要なものを必要なだけ摂取して頂くのは、「私たち自身の為」でもあるわけです。公的機関である必要があり、私たちの安全の為に、私たちができない事を、担って頂いているのですから、まさに税金の出番だと思うのです。

彼らは、危険な状況にも対応できるように、日々の訓練を欠かしません。

時間があればトレーニングをします。緊急時に支障をきたさないように、旅行に行くにも申請しなければいけません。

まさに緊急時のプロフェッショナルです。

どこの一般企業に、勤務中、勤務時間外まで常に会社の為に供えて、時間があれば、自ら厳しいトレーニングをしている人がいましょうか?

ただただ頭の下がる思いが致します。

 

 先ほど、ネット上で少しニュースを見ておりましたところ、部活動への教師の負担を減らすというニュースがありました。

これは教育の現場の方からの声を何度も聞いている私としては、「遅い」というのが率直な感想だったわけですが、ネット上につけられたレスに目を疑いました。

過度な指導による危惧に関するご意見はごもっともな部分も多いのですが

部活動が必要ないというご意見。

教師を罵倒するようなご意見。

オンパレードです。

部活動は学校が主宰する必要はなく不必要で、やりたければ各自で団体に所属したり習いに行けばよいというわけですが、そもそも、習い事等をするには経済的な負担が生じます。それらは安価なものからかなりの高額になるものまであります。

全ての家庭でそれが可能であるわけがありません。

しかし、部活動であれば、学校側から備品を貸してもらって取り組む事もできますし、月謝というものもありません。

部活によっては部費を集める場合もあるでしょうが、月謝の比ではありません。

まず部活動には、そういった「子供のやりたい事を学ぶための機会である」という面がある事を忘れてはいけないと思うのです。

また、部活動という枠組みでの同年代が集う場での活動であるからこそ学べる事も多々ありますし、そんな中から成長していく面も多々あります。

勉学が苦手な子が、部活動をがんばって進学の助けになる事もありますし、中には将来へとつながるご縁となっている場合もあります。

私の知っている方にも何名か、部活動で始めたことを続けてプロになられた方がおります。

それを、教師の負担が増えていて、事故もあるぐらいなら不必要とは少し短絡的ではないか、厳しく言えば、面倒事の放棄と思うのです。

人のやることですから、時に事故もあるでしょうし、過度な指導等が原因で取り返しがつかない結果になってしまうこともあるでしょう。

人が火を扱えば時に危険なこともあります。過度な注文によって管理があまくなり火事になる事もあるかもしれません。

なので、飲食店は不必要です。

とはならないでしょう?

そういった事故を起こさないためにどうしたらよいのか

充分に検討し対策した上で、将来を見越して取り組む事が大事だと思うのです。

 

 次に教師への罵倒に関してですが、これは論外です。

あまりに思慮がなさすぎます。

教師の朝は早いですよ。子供達の中には、保護者の朝が早かったり等、様々な理由で登校完了よりかなり早く登校してくる子達がいます。その時には学校は開いていなければならないのです。よくみかける「挨拶運動」や「交通安全週間」なんかをしているときは、さらに早いです。

知り合いの教師には4時半頃に起きて、5時半には学校に行くという方がおります。

学校で配られるお知らせのプリントやお手製のテスト、参考資料をまとめたプリントから掲示物まで、授業時間以外に先生がせっせと作っています。もちろん、授業計画、テストの採点から成績などの集計、提出物のチェック、健康診断があればその集計、職員会議にPTA会議、他校との情報交換会や連動。教育委員会とのやりとりや保護者の対応。日誌、報告書。部活指導もして、補導員として夜遅くまで警察と連絡を取りながら見回り。

学校に戻って、授業の準備や事務処理。そんな夜中にも保護者から電話がかかってきて対応。「家に帰るのは、早くても日付が変わる。忙しい時は2時間も寝られない日が続く」なんて笑っておっしゃっている知り合いの教師の言葉が脳裏をよぎります。

これで、残業という概念そのものがないのですから驚きです。

 

 ところが昨今、世間の教師のイメージはひどいものです。

しかし、そんな教師ばかりどころか、1割でもそんな教師がいてごらんなさい。

そんな教育の現場が機能すると本気で思いますか?

現在、ほぼ全ての教育の現場は機能しているんです。

それがどういうことか、考えるまでもなくわかることでしょう。

どんな企業であっても、問題を起こす人が出てくることはあります。

教師や公務員は、公的な機関である以上目立ちます。

メディアからも注目されやすくなります。

しかしながら、ちょっと考えれば、現実は世間のイメージとはかけ離れたものであることぐらい想像にたやすいと思うのですが如何でしょうか?

 

 では、話を戻しまして、そんな教師の部活動の負担は相当なものです。

安全に気を配り、他校との連携、試合や発表会ともなれば手配から移動まで顧問の仕事です。朝練だといえば、それに合わせて準備して出勤しますし、放課後も仕事が残っているからという理由は通じるはずもなく指導に赴く。部員からの相談や個別の指導は勿論、部内の雰囲気にも気を配る。

時に教師が指導者としての経験を経ていない部活の顧問に抜擢されれば、新たに勉強したり、他の指導者に習いに行ったり。

これを読まれた方は、もうお分かりのことと思いますが、これらは外部からは見えないかもしれませんが、考えてみれば当然そうやっているからこそ機能しているのです。

それらの負担が全て教師が背負っていると考えると、そのご苦労は相当なものです。

地域によっては、地元の方が指導の手伝いに来て下さる事もあります。

私が剣道をしていた頃にも、地元の少年剣道の先生方や剣道をしていた保護者方が空き時間を見つけては指導しに来て下さっておりました。

とはいえ、もしそこでなにか事故でもあれば、責任は顧問にいくわけですから、顧問の先生はお手伝いの方々に任せきってしまうわけにもまいりません。

そして先生としては、そういう中でも頑張って取り組む子供たちに、勝たせてあげたい、賞をとらせてあげたいと願うものです。

行き過ぎた指導はいけませんが、そんな多忙な中でも放棄せずにそう願う事というのは指導者としてはすばらしい事だと思います。

 

 さて、長々と書き綴ってしまいましたが、以前のブログにも書きましたように、私としては、「考える」ことをしていただきたいと思うのです。

考えることは、色々なことに思いを馳せることです。他に目をやり、他を思いやり

そして自分を見つめることにもつながることです。

願わくば、これ以上思いやりのない理由を背負った透明な飲料が増えないことを。