はいっ坊主

坊主が気まぐれに日々のご縁をしるします

ちょっと気になった記事を解説してみようと思います。

昨日、このような記事を発見しました。

【悲報】中国「日本の仏僧っておかしくね?」→ 内容がwwwwwwwwwwwwwwwwwww - エクサワロス | ニュースまとめサイト

exawarosu.net

とりあえず、説明をしてあげたいなと思ったのですが、いかんせん簡単に説明できるものではないので、このブログに書いてしまおうというわけです。

そもそも、チベット問題などなどのある中国の方が言うことではないと思いますが・・・。

 

 まず、話の内容としてのポイントが、肉を食べたり酒を飲んだり結婚したりという点にあるので、ここへ通じるルートの説明からする必要があります。

 

過去の記事でも紹介しておりますが、仏教教団は釈尊の没後、分裂を繰り返します。

その理由の一つに、布施の扱いがあることも記載しましたが、簡単にもう一度記載しておきます。

托鉢をした際などに、食物等を布施されるわけですが、中には余ってしまう調味料なんかもあったわけです。

こういうものを、蓄えてとっておいても良いかどうか?

普通に考えれば、「いいんじゃない?」となりそうですが

備蓄しておくということは「財産」とみなされるわけです。

ここが仏教教団の中で意見が分かれる要因となったのですね。

他にも色々とありますが、とりあえずはこのような問題などを巡って分裂をしていくわけですが、「釈尊が言ってない事はしない派」と「時代や事情に合わせてもいいじゃないか派」との対立と考えてもらうと話は分かりやすいと思います。

 

 仏教には根本理念がありまして、三法印(または四法印)といいます。

そしてこの理念があれば仏教で、なければ仏教ではないと考えて良いという事を以前の記事にも書かせてもらいました。

この根本理念に、先述した備蓄の要素など登場しません。

つまり、根本理念をきちんと押さえつつ、時代じゃ事情に合わせていくという流れはここに源流があると申して良いでしょう。

 

 根本理念を押さえつつというのは、簡単に言えばこういう事です。

北海道から本州へと移動するにあたって「津軽海峡を渡りきる事」が根本理念だとしましょう。

昔のように、小さな船で潮流の早い津軽海峡に漕ぎ出して渡る事が基本だったとしても

技術が発展して、安全で快適なフェリーが出来たならそれに乗って渡っても、根本理念は押さえています。

青函トンネルを抜けても、飛行機やヘリコプターを使っても、「津軽海峡を渡りきる」という根本はきちんと押さえられています。

 仏教の根本理念をきちんと押さえておけば、時代や事情、人に合わせて手段などが変化しても、それは仏教なのだというのはこういう事なのです。

 

 さて、仏教の原点へと戻ってみましょう。

これも以前の記事で紹介しておりますが、釈尊の生涯を見ますと

簡単に言えば「生老病死」の迷い悩みとの戦いでした。

そして、その悩み迷う姿は「人間そのもの」です。

釈尊も人間ですし、仏陀となった後に釈尊に救いを求め集まった人もまた人間そのものです。

釈尊は、その人その人に合わせて、様々な説法を展開します。

釈尊の弟子たちもいれば、一般の方もいたでしょう。

その教えの数は少なくとも8万4千にもなります。

仏教が「八万四千の法門」と呼ばれるのは、後に釈尊の弟子が、私が聞いたと言った教えの数に由来しています。

 

 現在、物的証拠として発見されていませんが、現存する最も古い仏教経典などを紐解きますと、その内容は「自利(自分を救う)」です。

つまり、出家して修行した人のみが救われていくような教えになっています。

勿論、一般の方の布施による善行なんかもあるのですが、まぁ弱いです。

涅槃寂静には程遠いです。

となりますと、出家して修行できない人たちはどうしたら良いのでしょう?

そこで登場するのが「大乗仏教」です。

登場するのが自然と言ってもなんら違和感のないぐらい、当然求められたであろう大乗仏教ですが、その理由の最も特徴的な部分が「利他(みんな救う)」です。

一方、「釈尊の言ってない事はしない派」の流れを汲む仏教を、大乗に対して「小乗仏教」と呼びました。しかし、差別的な表現だということで、現在では「上座部仏教」等と呼ばれています。

 

 上座部仏教は、主にタイなど南側ルートへ伝播されていくことから「南伝仏教」と呼ばれ

大乗仏教は主に中国や日本など北側のルートで伝播されていくことから「北伝仏教」とよばれました。

ですから、日本に最初に入ってきた仏教はすでに「大乗仏教」でありました。

奈良仏教、そして平安仏教へと、新しい仏教が次々と入ってきましたが、一口に大乗仏教と申しましても、経典もたくさんありますし、それを論じた書物などもたくさんあります。

しかしながら、動乱の時代の中にあって、いくら大乗とはいっても、それは完全なものではなかったのです。

と申しますのも、農民の人、戦で人を殺している武士の人、体を売って稼ぐしか生きるすべを持たない人など、苦しむ人たちが大勢いる中で、まだ大乗の中にあって「自利」の色が強い仏教が主だったのです。

 

そういった中で時代は鎌倉時代へと移って行きます。

当時、日本の最高学府は比叡山でした。

出家した僧たちは比叡山で学び、時に留学したりして、新しい仏教のスタイルを築いていきます。

とはいえ、新しい仏教を勝手に作ったのではありません。

豊富な書の中から、自らの求める救いを選んでいったと言うのが適切でしょう。

先ほどの例でいえば、「私は青函トンネルを抜けるルートを選びました」「私はヘリで一気に飛び越えるルートを選びました」という類のものだと思って下さい。

基本の中には「波に対して、船を垂直に向けよ!」「潮の流れに対して、垂直には進めない、斜めに進むものと心得よ」等いろいろと書かれていたとしても、津軽海峡を渡りきるという根本をきちんと押さえて渡り切れば、それらのノウハウは必要ないわけです。夫々の事情に合わせて、求めるものに合わせて、渡る手段を選ぶように、たくさんの経や書の中から、求めるものを探し選び、精査していったのです。

 

 そんな鎌倉時代の仏教の中に登場したのが法然上人です。

彼の勉学の才については、今も語り継がれるほど優れておりますが、そんな上人が選び取ったのが、浄土宗の教えです。上人の著書である撰択本願念仏集の名前は聞いた事がある方も多いと思いますが、読んで字の如し「本願念仏を撰択」したのです。

よく日本の仏教は「改造」だと言われますが、少なくとも浄土宗の教義は改造ではありません。

広く多岐に渡る教えの中から「選び抜いた」仏教なのです。

教義の要となる経も「無量寿経」であり、経の中に上人が根拠とし、本願とされた一節(第十八願)が明記されています。

 

 この浄土宗の教えは大変すばらしいもので、一般の人へも次第に広まっていくことになります。

それはそうですよね。お念仏申せば一切の差別なく救われるわけですから、農民だろうが武士だろうが「私に救われる道はないのか・・・」となっていた人たちにとってはこんな良い話はありません。

先述した、時代や事情、人に合わせた変化のひとつがこの鎌倉仏教のスタイルの特徴だと言えるでしょう。

決して、一から新しいものを勝手に作り出したのではなく、広く展開されている教えの中から、時代や人に合わせた教えを選びとり、それを中心に様々な書を読み解き、教義としてまとめあげたのです。

しかし、その時代の他宗派からは、延暦寺奏状や興福寺奏状といった「そんな教え認められん!やめろ!」と言った動きを受けることになりました。

そんな事があった中で、後鳥羽上皇の可愛がっていた松虫姫と鈴虫姫が、法然の元へ行ったり、招いたりした挙句、出家してしまう事案が発生し、上皇の怒りを買いました。

その結果、法然上人、そして弟子である親鸞聖人は流罪となり、僧籍(僧侶の籍・資格)を剥奪されることになります。だいぶ端折っていますが、これが承元の法難と呼ばれる事件です。

これによって、法然上人は藤井元彦と、親鸞聖人も藤井善信という俗名を与えられることになりました。

親鸞聖人は、これにより「僧侶ではなくなった」が、念仏のみ教えに生き、み教えを広める身なので「俗人でもない」というわけで、非僧非俗(僧に非ず俗に非ず)としました。

 

 親鸞聖人は僧侶の身でありながら妻帯しておりました。

(時期や場所は複数の説があります)

話が前後しますが、妻帯へ至るルートも紹介しておきます。

親鸞聖人が比叡山を後にし、六角堂に百日間篭った時の話です。

95日目に、救世観音が姿を変えて現れ

 行者宿報設女犯
 我成玉女身被犯
 一生之間能荘厳
 臨終引導生極楽

と告げたとされています。

簡単に言えば、例え女性と性交することがあったとしても、私が玉女となって抱かれましょう。そして、生涯を飾り臨終の時には私が極楽へと導きましょう。というような内容です。

 親鸞聖人は、法然上人の元で、お念仏のみ教えを受け、念仏者として生きる中で

仏教で禁忌とされているさまざまなことが、往生浄土への妨げにならない事を知りますが、私の勝手な推測ですが、従来の仏教に矛盾を感じていたのではないかと思います。

例えば食事ひとつをとっても、植物は良くて、肉は駄目というのは矛盾です。

どちらも同じ命です。

それどころか、知らずに蟻のような小さな虫を踏み潰してしまうこともあれば、現代でいえば、病魔を治療することもまた殺生です。白血球は体内で細菌などを次々に殺しています。

聖人の時代に白血球なんて言うつもりはありませんが、このような矛盾に対する答えを持っておらず、六角堂での夢告、法然上人の元で知った、何事も妨げにならないお念仏のみ教えによって、この問いが解決したのではないかと思います。

僧侶による肉食妻帯のルーツはここにあります。

 

 さて、親鸞聖人が七高僧として選定された方々の中に「道綽禅師」と言う方がおられます。

七高僧については、また別の機会にお話できればと考えておりますので、今回はかなり簡潔めに申しますが、中国で道綽禅師が生まれた時代というのは、なかなかに激しい時代でして、飢饉や害虫による害、加えて経典燃やせ、仏像ぶっこわせな武帝がいたりと、大変な時期でした。

加えて、釈尊の没後の経過的に、末法の時代に入ったという考えを持っておりました。

そんな中で、道綽禅師は浄土の教えと出会うことになります。

そして、「時代や人に合わせた仏教」という「約時被機」という考えの下

仏教を「聖道門」と「浄土門」の二門に判別しました。

つまり、厳しい戒律を守って修行して救われる事ができる人は聖者であって

そういう人は聖者の道である聖道門の行をしたらよいけれど、私たちのような凡人には到底そんな事ができないので、そういう人たちの道として浄土門(浄土のみ教え)があるのだというわけです。

何が言いたいのかと申しますと、鎌倉時代法然上人が行ったような、広く多岐にわたる教えの中から、自らが求める救いを選び取り実践する仏教のルーツが明確になったのは、この道綽禅師の「約時被機」がポイントになっているという事です。

 道綽禅師以前の七高僧の教義も、道綽禅師へと繋がるルートとしてありますので、例えば二門をいきなり判釈したのではなく、それまでに難易二道として分けられていたものを二門と掘り下げて判釈していく等、法然上人、親鸞聖人へと繋がる七高僧のルートがあります。

先ほども申しましたとおり、また別の機会にお話させていただければと考えています。

 

 さて、まとめますと、最初に申した飲酒肉食妻帯へと繋がるルーツは、日本では浄土宗からの浄土真宗にありますが、そのルーツを作るルートは、道綽禅師の約時被機の考えで「時代や人に合わせた仏教が必要である」と明らかにされ、そこに至るルートを遡ると、釈尊没後の根本分裂に至るというわけです。

ちなみに、私は肉食妻帯していますが、酒だけは飲まないというより、飲めないスーパー下戸です(笑)