はいっ坊主

坊主が気まぐれに日々のご縁をしるします

とある業者の悲鳴

 先程、子供の行事等を撮影してDVDを販売する業者が悲鳴をあげているという記事を拝見しました。

大まかな内容としては、購入した一部の保護者に違法コピーしてもらうために、殆ど売れないというもの。

 

 この記事に対する反応は、「そういう時代だから仕方ない」「業者は高すぎる」

という、違法コピー支持の意見が目立つようです。

 

違法だと申しましても、コピーが簡単にできてしまうご時世です。

業者が声をあげても、しらを切られてしまえばそこまででしょうし、保護者側がわざわざ問題にすることも考えにくいことです。

購入者だけが視聴できるシステムというのも困難です。

ダウンロードコードなんて無意味ですし、コピーガードすら無意味です。

特定の場所に足を運んでもらえばいつでも見られるといったシステムではあまりに購入者への負担が過ぎます。

ですから、法的に問題のある事でありながらも、この案件が無くなることは当分ないと予想されます。

 

 さて、この事について、皆さんはどのように捉え、どのように考えるのでしょうか?

 

 私としては、どちらの言い分も理解できますが、理解できるにすぎず、これは様々な事柄の縮図のように思えてなりませんでした。

 

 「餅は餅屋」なんて諺がありますが、プロとして生業にする者の多くは、多くの素人では届かない領域の仕事をします。

そして、素人ではわからない程の微々な差も大事にします。

例えば、故あって、この件のプロの現場で働くエンジニアさんも割と詳しく知っております。

最近のカメラの性能が向上して、素人でも綺麗な写真や動画が撮影できるようになりましたが、それでもテレビ等のメディアの映像と、YouTube等でみかける素人のクオリティの高い映像とでは、やはり差があります。

中には素人でありながら、プロ並の知識や技術を持つ者も存在します。それはどの業界であっても同じです。

しかし、殆どはプロの映像とは様々な差が生じています。

それは、写真一枚撮るにも、構図、照明の関係、演出などなどプロとして培ったノウハウがあり、それを支える高価で高性能な機器があり、高いクオリティの素材をさらに良くする為の技術をも持っているからこそできる業です。

演奏会の演奏をCDにする場合でも、録音するのにセンターのマイクの種類はどうするのかサイドのマイクはどうするのか、どこのメーカーのマイクをどこに何本立てるのかを空間の材質や季節による服装による吸音等も見越し、目的によって選び、リハーサルなしの本番でも最初から綺麗に録音できるように、入念なチェックを行い、それらの音をバランスよく配置し、持ち帰って修正し、雑踏等のノイズを音質を維持したまま極力抑え、バランス良く、しっかりとした音圧で届くようにマスタリング処理を行います。

 

 だからプロなんです。

レンジで温めるだけのご飯も、スーパーでパック詰めされたご飯も、家庭で炊いたご飯も、プロの料理人が厳選した米を念入りに研ぎ、厳選した水で緻密な火加減を行って炊いたご飯も、同じクォリティなわけがないのです。

味や食感の違いすらわからない人だらけになってしまったなんてことはないでしょう?

「ご飯なんて腹が膨れればいいから」

というのであれば、それで良いですが

その範疇を超えて、プロが真剣に炊き上げたご飯を、材料費にもならない値段や無料で食べさせてほしいというのはどうでしょう?

もし食べさせて頂けたなら、それは感謝すべき厚意です。

そうでもないのにそれを求めるのは、真剣に向き合う人たちに対する冒涜に同じです。

 

 以前も対価のお話を書かせて頂きましたが、あまりに思慮がないと感じるコメントが目につきましたので厳しい書き方をさせていただきました。

 

 一方で、「時代」というワードは非常に現実的な問題です。実際に、プロのクォリティとまではいかなくても、一昔前よりはるかに進歩した機器が比較的安価に手に入る時代に、「思い出の一ページとして楽しむだけだから、そこまでのクオリティは求めない」というのであれば、父兄の方が撮影したもので充分に満足するのは至極当然の話です。我が子をメインにカメラ割することもできますし、厚意でコピーして他の家庭にプレゼントするのも自由です。

技術が進歩したからこそ、素人とプロとの差が少し縮まったのも事実ですから、そうなると、そういった現場にプロは必要なくなっていくのも道理です。

 

 将来的には、あらゆる分野でプロとの差はもっと詰まっていくことでしょう。

しかし、その結果その行き着く先からプロがほとんど淘汰されてしまったとしたらどうでしょう?

「技術はほぼ、そこで止まります」

開発する側もどこをどう改善してよいのか、より良いものを知る者がほとんどいないのに加えて、僅かに残ったプロが切磋琢磨し研鑽する機会も激減しているわけですから、ご意見を伺うにも新しい事は特に・・・。

淘汰されなくとも、ほぼ一強状態で残る分野もあるでしょう。

例えば周囲にコンビニが一社しかない世界。

これは最近そうなりつつあるように感じていますが。

毎日お弁当を購入しなければならないような人が、まず飽きて困ることになります。

小まめな内容入れ替えのようなコストのかかることは期待できません。

かといって、力に差がつきすぎると、新たな出現は非常に困難を極めるようになりますし、出現しても、巨大な力の前にねじ伏せられてしまうことも否定できません。

 

そんな世界はどんな感じなのでしょうね。

不満を持ちながらも不便ではないと思います。

しかし、胸が躍るような機会が激減するのも間違いないでしょうね。

そんな時代に生きる人間の心は、暮らしは、人間関係はどんな風になるのでしょうね。

 

私自身はと申しますと、淘汰されてしまった未来を考えたときに後悔するぐらいなら、現在の僅かな不便を選びます。

実際にコンビニを利用するにも、意識的に偏らないように利用しております。

門徒さんの世話が減ってしまったお寺での法要の後片付けを手伝ったりもします。

 

自然淘汰だ」

と言ってしまうのは簡単ですが、支えあう事が巡り巡って自分達の為になることも多いと思うのです。

ついでだからとちょっと手伝う。

困っている人を思いやり、微力ながら手を差し出す。

ただの独りよがりかもしれませんが、以前にも記載した「リレー」をしているにすぎません。

 

「日本人は世界的にみても本当に親切だ」

 

とお話してくださった大学の学長さんがおりますが、そのお話の中で繰り返されたのは「ご縁」というキーワードでした。

 

今回の件についても、「買う買わない」はそれぞれ自由ですし、何ひとつ私から申し上げることはありません。しかしながら、この件について、事情もよく考えずにきつい発言を行ったり、言い訳があるから違法コピーしても良いというような事を考え支持したり、何も考えずにコピーを願い出たり、「自分さえ良ければ」という意思が見え隠れしているように感じてなりません。

「ご縁」というキーワードは本当に素敵です。

この機会に一度思いを巡らせて頂ければ幸いに思います。