観測者により収束する
物理学の世界で有名な思考実験に「シュレーディンガーの猫」というものがあります。
聞いた事がある方も多いことでしょう。
簡単に言いますと、1時間の間に半々の確率で装置が作動して生物を殺してしまう箱の中に猫を入れ、1時間後の猫がどうなっているか?という事です。
物理学の世界では、これを重なり合った状態といってみたりするようですが、簡単に言えば「開けて見てみないとわからない」という事です。
つまり、観察する者がいて、初めて結果として収束するわけですね。
さて、この話に似た話が有名な落語の中にも登場します。
それが「てれすこ」です。
簡単にあらすじを申しますと
見たこともない魚が獲れたのだが、さっぱりわからないので
この魚の名前を知ってる者には褒美を出すとしたところ
これは「てれすこ」という名前ですと言う男が現れました。
しかし、役人をはじめ誰もが知らない魚なので、それが正解かどうかの判断ができません。
男はまんまと褒美を貰う事になりました。
しかし、どうも疑わしいということで一計を案じた奉行は
この「てれすこ」を干したものを、この魚を知ってる者は褒美を・・と
以前と同じような事をふれます。
すると以前「てれすこ」と言って褒美を貰った男が現れ
「これは”すてれんきょう”です」と言ったから大変。
これは以前てれすこと申したではないか!
と男は捕らえられて打ち首を言い渡されてしまいます。
男は最後に妻子に会わせて欲しいと頼み、やってきた妻に対して
「子供が大きくなっても、イカの干したものをスルメと呼ばすなよ」
と遺言を伝えます。
元々知らない魚のこと、こういわれてしまうと納得するしかありません。
男は無罪放免となりました。
この二つの話の何が似ているのかと申しますと
どちらも「観測者によって収束している」という点です。
シュレーディンガーの猫は、観測者が箱を開けて観察してみなければ
状態が確定しない。
てれすこは、観測者が正解かどうかを判断できなければ真実かどうか確定しない。
観測者があって初めて結果が成立しうる事です。
仮に、シュレーディンガーの猫の観測者が、実際の結果と間逆の結果を伝えたらどうでしょう?実験の結果は正しく伝わっていませんが、伝えられたものは学者先生が実験したことだからと鵜呑みにして真実として伝わってしまうでしょう。
てれすこの役人の一人が「それは間違いだ」と声を出していたらどうなっていたでしょう?
私たちが何気なく過ごす日常の中にあって
私たち一人一人はその「観測者」にほかなりません。
あの角を曲がった先に人がいるのか、男性なのか女性なのか。
曲がった先の店は今日営業しているのか、いつものおばちゃんが店番をしているのか。
先に通った知り合いから、「店のおばちゃんに声かけられた」と情報をもたらされていても、あなたが通るタイミングでもおばちゃんが店番をしているとは限りません。
私たちの何気ない日常の全てが観測者である私たち一人一人が観察してみるまで収束しません。
しかし、観察しなくても、世の中はちゃんと動いています。
自分が確信を持てないだけで、実際には瞬間瞬間の状態が常に存在しています。
否定もできなければ、肯定もできません。
しかし、観測者のあなたが否定しようが肯定しようが、なんらかの状態は存在しているのです。
それは、あなたが「いつも通り」と感じることかもしれませんし
「え?まさか??」と感じる事かもしれませんよ。
あなたが観察していないだけで、あなたの嫌いな人がとても親切なことをしている可能性をあなたは否定できますか?
あなたが観察していないだけで、あなたの身を案じている存在がいる可能性をあなたは否定できますか?