伝える事は難しい
私が得度して、数年が経った頃に先輩のお坊さんに言われた事があります。
「どんなご法話を聞いても、ご講師の言った事が全て理解できるか?」
ご聴聞させて頂いていた折、言っている事は基本的に分かっていて聞いています。しかし全てを完璧に理解できるご法話は、実はさほど多くありません。それを常々感じていました。
内容が難しい、要点が分かりにくい、用語が分からない、自分の理解と食い違いがある、内容の理解や用語の誤り等に「アレ?」と思っている間に進んでしまい戸惑う等々、幼い頃から、仏教に、しいては宗派の教義に触れていてもそのような事はよく有ります。
「だいたいは分かるけれど、分からない事もある」
即答でした。
先輩のお坊さんは
「そうだろう。私らのように接しているものでも、分からない事も多い。ましてや一般の人はもっと分からない。」
「確かに!」
納得せざるを得ない瞬間でした。
そして、そこに私がご法話をする際に最も心がけている要ができました。
『分からなければ、何も聞いていないのも同じである』
心がけてはいても、悔しいかな、満足できる法話ができた事はまだ、ただの一度もありません。
知識のある人に説明するのは、比較的容易なのですが、知識のない方に説明するのは非常に難しいものです。生まれて一度もライオンを見た事がない人に、ライオンの説明をすることを考えてみて下さい。
ネコ科の肉食動物で・・・云々
そんな"授業"を聞いても退屈なだけで、上っ面の知識だけしかありません。
みなさんならどう説明しますか?
今日、仏教とは全く無関係のことではありましたが、教えるべく説明をしていた際に、この先輩お坊さんとのやり取りを思い出しました。
何事においても、難しさを知る事が本格的な歩みの第一歩です。
百里の道は九十九里を以って半ばとす。
別の先輩のお坊さんに言われた言葉が、同時に脳裏に蘇るそんなご縁の日でした。