はいっ坊主

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大乗仏教の登場と伝播

 大乗仏教という言葉は「偉大な/大きな」「乗り物」で「大乗」と呼ばれています。

「大」があるなら「小」もあるのか?と言いますと、答えは「あります」。

しかし、小乗仏教という言い方は、大乗仏教が登場したことによって、大乗仏教に分類されない従来の部派仏教等の事を指した呼び方で、しかもその呼び方には蔑称の意味があることから、現在でも通じはしますが、あまり使わないようにされています。

 この言葉の説明だけでも何となく予想が出来るとおり、部派仏教大乗仏教には何やら、ただならぬ壁がありそうです。

前回の補足にもなりますが、釈尊入滅後の仏教の話の中で、根本分裂、そして部派仏教への分裂についてお話させていただきました。まだ、読んでいないという方は、混乱を防ぐためにも一度お読みになってから、今回の話をお読み頂くと、より理解が深められると思います。

仏教教団が分裂した原因は三蔵の「律」の解釈をめぐる要因が大きいという事にも触れましたが、分裂した各派は、それぞれに釈尊の教えを解釈して、三蔵の「論」をまとめる作業を行いました。

そうして、まとめられたものをアビダルマと言うことから、部派仏教の事をアビダル仏教と呼んだりもします。

そんな分裂が数百年に渡って起こったわけですが、紀元後1世紀頃になると、それまでの単純な分裂とは少し異質な、分裂なのか登場なのか、定かではないものが登場してきます。それが大乗仏教です。

間違いないのは、確実に求められて登場していることでしょう。

 

 ここで、前回の話の中で私の考えとしてお話させて頂いた事が、表立ってくることになります。恐らく、前回までの話をお読みいただいた方の中にも、仏教に対して「あれ?」と感じた方がおられるのではないかと思います。

そう、これまでの仏教の教えによって救いの道の達成を目指せる人というのは、限られた極一部の人達だけです。

八正道(また別の機会に解説します)の実践、教義の理解、瞑想を行ったりといった事を充分に行うためには、まず出家して修行に集中できる状態にならなければなりません。例えば奴隷として自由の無い人が、救いを求めても、奴隷としての仕事をこなしながら充分な修行などできるわけがないのです。

考えてみれば当然ですね。現在の日本においても、国民全員が出家して比叡山などに篭って、托鉢をして食料などを確保して・・・食料を誰が布施してくれるのでしょう?

そもそも食料を誰が作るのでしょう?誰が流通させるのでしょう?

あっという間に、社会は滅茶苦茶になってしまいます。

当時のインドであってもそれは同じです。

では、そのように修行に身を置けない人達は、どうしたら良いのでしょうか?

これもカルマだと諦めなければならないのでしょうか?

大乗仏教に対して、小乗仏教という言い方が蔑称の意味合いを持つというのは、こういった要素を大乗仏教側から見た時の軽蔑、非難なわけです。

部派仏教は前回の内容で触れたとおり、結集に参加した弟子の阿羅漢たちの流れ、言わば釈尊に近い専門家たちによって受け継がれたという色が濃いものです。釈尊から受けた教えも、当然出家修行者向けの教えでしょうから、より専門的なものになっているのでは?というのが、私の持論です。

仏となった釈尊が、我が身と我が弟子のみを救って、苦しむ衆生は見殺しにするとは私には到底考えられないのです。

 

 さて、登場しました。私と同じ疑問を持つ人を解決してくれる仏教が。

それが大乗仏教なのです。

部派仏教との、最も大きな違いは「利他行」の存在になります。

簡単に言えば、苦しむ一切のものを救おうという精神です。

大乗仏教の登場に関する私個人の説などは、入り込んだ私の主観からなんとなく察しがつくと思いますが、機会があればお話させて頂こうと思います。ここでは先へ進めたいと思います。

紀元後2世紀に登場する「龍樹菩薩」によって、大乗仏教は完全に確立されたと考えて良いでしょう。

 後に部派仏教の系統はインドの南側ルート、大乗仏教は北側ルートを通って広まっていく事から、現在のタイやスリランカに伝わっていく仏教南伝仏教、中国や日本に伝わっていく仏教「北伝仏教と呼んでいます。

 南伝仏教は、現在でも当時の部派仏教の流れを守っていますので、ここからはタイトルに従って、主に大乗仏教が伝播していく北伝仏教に話の焦点を当てたいと思います。

 

 大乗仏教は、シルクロードを通り、チベットや中国へと伝播していきます。

こう聞くと、西遊記のお話を思い出す方も多いと思いますが、まさにそのとおりです。

西遊記に登場する「三蔵法師」は、三蔵(経・律・論)をおさめたお坊さんという意味で、モデルになったのは、唐時代の玄奘という僧です。

玄奘西域記なんて漫画もありますので、興味がある方は探してみると良いかも。

 そして、朝鮮半島を経て、ついに海を渡り日本へと入ってくることになります。

日本に最初に仏教が入ってきたのは、538年とも552年とも言われていますが、実際にはそれ以前に、民間単位で入ってきていたと言われています。

最初は南都六宗(奈良仏教とも呼ばれる)という文字通り6つの宗派が日本に根付きましたが、色々と大人の事情もありまして(調べてみると面白いですよ)、桓武天皇嵯峨天皇は、遣唐使が持ち帰った新しい仏教を保護するようになります。

それが、天台宗(最澄)」真言宗(空海)」で、総じて「平安仏教と呼ばれています。

 中でも、最澄が開いた比叡山は、日本仏教における総合大学的な位置付けを担い、その後に登場する鎌倉仏教の礎となりました。

鎌倉時代には、比叡山で学んだ僧たちを中心に、宗派が誕生していきます。

それらの宗派を総じて「鎌倉仏教と呼んでいます。

鎌倉仏教には、「浄土宗(法然)」浄土真宗(親鸞)」時宗(一遍)」法華宗(日蓮)」臨済宗(栄西)」曹洞宗(道元)」があります。

 

~おまけ~

設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国

乃至十念 若不生者 不取正覚 (唯除五逆 誹謗正法)

無量寿経の中に法蔵菩薩(阿弥陀如来が修行中の菩薩だった頃の名前)48の願立てが書かれている部分があり、上記はその一つ至心信楽の願と呼ばれるものです。

簡単に訳すると、

「私が仏になるとき、あらゆる人々が心から信じて私の国に生まれたいと願って、わずか十回でも念仏して、生まれることが出来ないなら、私は覚りをひらかない。」

となります。

度重なる戦乱、今とは雲泥の差のある農業技術や品種事情。冷害飢饉

今の恵まれた時代に生きる私たちには想像だにできない時代背景が日本仏教にはあります。そんな中で生まれ、汗水流して日々働いても食えないこともある。

かつて親鸞聖人が出家した際に詠んだ和歌があります。

「明日ありと思ふ心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」

わずか9歳にして詠んだものです。

9歳の子供が、得度を明日しようと言われ、「今夜嵐になって桜が散らないとは限らないじゃないか」と例えて今日得度をして欲しいと懇願したものです。

「少しでも早く出家したい」、たった9歳の子供にそう思わせる時代だったのです。

「たとひ法然聖人にすかさせまひらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」(歎異抄)

これは、簡単に訳せば法然上人に騙されて、念仏して地獄に落ちたとしても後悔しないという意味です。

法然上人への尊敬であるとか、信頼であるとかという解釈もありますが

比叡山で、熱心に学び、常行三昧といった苦行を行った親鸞聖人が、それでも救われない我が身が、念仏の教えに出会って初めて救われた。「もはや私にはこれしかないのだ」という思いが溢れ出ている一節だと感じます。

そんな親鸞聖人が法然上人から受け継ぎ、よりどころとした阿弥陀如来の念仏の教えが、先述した無量寿経四十八願(第十八願)です。

そんな無量寿経もまた、大乗仏教の経典の一つで、確認されているのは、サンスクリット語で書かれたインドの経典です。