はいっ坊主

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釈尊の生涯3

釈尊の布教

 釈尊の布教とはどういうものだったのでしょうか。

仏陀となった釈尊の元へ、様々な人達が集まってきます。

また釈尊自身も、生涯一箇所で布教をしていたわけではなく、各地を巡っています。

こうして、釈尊の弟子たちは増え、仏教の教団が形作られました。

 

 釈尊の布教は、学校の先生のように、皆を前にした説法も行っていますが、個別への説法も行っています。

個別への説法が必要な理由は、想像にたやすいと思いますが、当時のインド辺りでは、階級による地位差別がありました。

また、職業、性別、境遇、能力など、人それぞれなのは今も同じです。

そこで釈尊は、個々に合わせた説法を行いました。

これを「対機説法」と言います。

 釈尊仏陀となってから入滅まで、こうした説法が行われたということを、頭の隅において置いてください。

この対機説法が長年かけて行われたという事が、また後日焦点になることが予想されますので・・・。

 

 対機説法について有名な話を挙げてみたいと思います。

釈尊の弟子の中に周利槃特という人がおりました。

経典によっては、周利槃陀迦、周利槃陀伽といった名前で描かれている人です。

この周利槃特は、残念ながら頭の良い方ではなく、自分の名前を呼ばれた事も教えられるまで分からないという方でした。

難しい仏の教えを、説明して分かるような方ではなかったわけです。

そこで釈尊は、箒を渡し、毎日掃除をするように教えました。

毎日ひたすらに掃除を続けても、塵や埃、垢等は絶える事がありません。

綺麗にしたところを汚されると腹もたちます。

「塵を払え、垢を除け」と口にしながらの掃除は幾月も幾年にも及びました。

そして、彼は「本当に汚れているもの」に気付きました。

その本当に汚れているものの事を仏教では「三毒 (貪・瞋・癡)」と言います。

三毒についても、またの機会にお話をしたいと思います。

そして、最後には、周利槃特は阿羅漢となります。

 ちょっとこぼれ話ですが、ミョウガ(茗荷)という薬味等に使われる植物があります。

香りが私も大好きで、味噌汁の具にしたり、焼いて味噌を付けたりと季節には楽しませて頂いております。

このミョウガには、迷信が一つありますがご存知でしょうか?

ミョウガを食べると、物忘れが酷くなる」

これは、茗荷という釈尊の弟子の墓の周りに生えていたから、というのが由来なのですが、この茗荷というのは、周利槃特の事と考えられています。

 

 話を戻しましょう。

釈尊の対機説法が、いかに相手に合わせたものであったのかが伺えるお話です。

他にも、女性による出家の話、王舎城の悲劇と呼ばれる話など、対機説法とも関連深いお話がいくつもあります。

ご存知のお盆の由来になった話の中に登場する場面も、対機説法の一つと考えて良いかも知れませんね。

これはお盆が近づいた頃にお話させて頂こうと考えています。

 

 

釈尊の入滅

釈尊も人間ですから、四苦(生老病死)からは逃れられません。

稀に勘違いをされている方がおられますが、釈尊は苦しみの原因を知り、全てを受け入れ、涅槃寂静の境地に達しているのであって、不老不死になったわけではありません。

釈尊は大勢の弟子たちに後を任せ、阿難という弟子を一人だけ連れて、故郷をめざします。

道中、チェンダと言う人が施したキノコ料理を食べて、病気になったと言われています。

尚、釈尊が人生において最上の食事だったとするのは、前回登場したスジャータの乳粥と、このチェンダの食事だという釈尊の言葉が残されています。

故郷を目前にしたクシーナガルに着いた釈尊は、自分の死が近い事を阿難に告げます。

阿難は泣いてしまいますが、それに対して釈尊は、泣いてはいけない。以前にも教えたことだ。と諸行無常のお説教をしたとされています。

怠ることなく努めなさいと最後の言葉を残し、頭を北に、右脇を下に、西を向いて横になります。

北枕の言われはここにありますが、インドでは最上の寝方とされているようです。

沙羅双樹が満開になり、比丘、動物が集まる中で横になっている絵を見た事があるかもしれませんが、それが涅槃図です。

こうして釈尊は寂静の涅槃に入りました。

遺体は河辺で火葬され、登る煙は太陽の光を受けて瑠璃色に輝いていたということです。

 

 

釈尊の生涯に関しては今回で完結します。

その後の仏教については、またお話したいと思います。