はいっ坊主

坊主が気まぐれに日々のご縁をしるします

算数の順序問題

さて、この記事をお読みいただくと、それぞれに考える所が出てくると思います。

皆様はどのように考えますか?

意見を押し付けたり、批判したりという目線ではなく、素直に考えを巡らして、素直に問題に向かい合ってみる中で、皆さんの中の一つのご縁に触れられればと思います。

 

 近年、頻繁に話題にあがる小学校の算数の議論をご存知でしょうか?

例えばこういうものです。

「リンゴが3個乗った皿が5枚あります。リンゴは全部でいくつありますか?」

 

 この問題に対して「15個」と答えがあっていても

3×5 という式を立てれば正解

5×3 という式を立てれば不正解

になるというものです。

求めたい解は「リンゴの数」であって、「リンゴ」が「何個分」としなければならないというわけですね。

 

算数というのは、数学の一部、基礎にあたるものですから、当然、前置きなどなくても四則演算の性質、交換法則、分配法則、結合法則も成立しているものです。

ですから、交換法則 ab=ba は一見問題ないはずなのですが、国語的な意味を加味しないと、式が意味を持たないと。

 当然これは議論になります。どちらの意見もごもっともなんです。

そこで、こういう文章題があったらどうでしょう?

「縦3センチ、横5センチの長方形があります。この長方形の面積を求めてください」

 

 この問題に対しては

3×5 という式で正解になります。

しかし、面積とは何であるのか?ということを考えると、ここに矛盾が生じます。

面積というのは 1×1 の広さを1平方と定義し、それが何個分あるのかということですから、先ほどの国語的な意味を持たすのであれば

1×(3×5) と書かなければならないはずなんですね。

リンゴの数を求めるならば、リンゴが何個分という計算をしなければいけないのですから

面積を求めるなら、1の面積が何個分としなければならないでしょう?

このような、○はこうしないといけないと言いながら、△では言及しない。

と言った、悪い言い方をしてしまうとご都合主義ともいえる中途半端な内容にしているのもまた、議論が過熱する原因の一つになっているのだと思います。

 

 さて、これは足し算や掛け算という、数学的にはシンプルな性質を持ったものでは良いですが、割り算となったらどうでしょうか?

「15個のリンゴを5枚の皿に同じ数ずつ乗せる事にします。一皿あたり何個のリンゴが乗りますか?」

 

当然 15÷5 という式になりますが

これをわざわざ 1/5÷1/15

みたいな逆数を用いたのでは、「はい????」ですよね。

 

 このように考えると、割られる数と割る数、掛けられる数と掛ける数といった、国語的な意味合いを持った式にするということは、意味のある事であると思います。

それだけに、「なぜ問題文に書いておかないのか?」が、この議論を見かけるたびに、私の個人的な疑問点となっています。

数学である算数には四則に伴う性質があるわけですから、そこに問題文で触れないままに問答無用で

「不正解」や「減点」

としてしまうから問題があると思います。

人によっては、数学の基礎をやっていながら、数学の法則を否定するの?と思われても仕方ないでしょう。

式に国語的な意味を加味しなさいと問題文に書かれているならば、誰もが納得の不正解で当然ですが、そうでないのであれば、それを不正解とされる数学的な理由はどこにもありません。国語の問題は国語でどうぞとも言いたくなるでしょう。

むしろ、数式に国語的な意味で順番が・・・なんて言うのは屁理屈というものです。

3個乗った皿が5枚も、5枚の皿に3個ずつも、数学的には正しいのですから。

それでも不正解にするというのであれば、答案の隅にでも、「四則演算に基づくと書いておけば、正解にして下さるんでしょうな?」という私のような理屈屋が登場した際に先生はさぞかし困りますね(笑)

分かっていて、理由のもと、あえてやっている人は正解にして下さるとは思いますが(笑)

・・・ですよね?

中学時代だったか、模範解答とは違う解法だったけれど、何度見直しても、後に誰に見せても証明成立しているにも関わらず、抗議しても覆らなかった残念な記憶が・・・(汗)

 

 おもしろい算数と数学の例を出してみます。

1リットルの水を3つに均等に分け、それぞれABCの3つのバケツに入れます。それを3回行うと、バケツ1つあたり何リットル入っていますか?

小学生の算数の順序問題も踏まえて式をたててみます。

(1÷3)×3=0.99999・・・

 

同じ問題を数学として解いてみます。

数学では÷3を逆数として表せますから1/3とします。

1/3*3=1 となります。

 

算数の0.0000・・・001はどこへ行っちゃうのでしょうね?

これは十進数ゆえの矛盾なのですが、算数のやり方と数学のやり方で

解答が異なってしまう有名な例です。

他にも1:1:√2の二等辺三角形を用いた同じような問題もありますね。

10cm四方の正方形の紙(紙の厚さはないものとする)を対角線に一回半分におったものを4つ組み合わせて作った正方形の面積・・・みたいな感じですね。

算数的なやり方をするなら19.999・・、数学的に解けば20ですね。

 私個人の考え方では、数学(算数を含む)というのは、あくまで「数」の「学問」なんですね。数というものは、十進数に限る話ではありませんし、仮定したり代数を用いる事も当たり前に行われます。問題に存在しない補助線などを想定して、解を導くような事もあります。

いわば、数とはなんぞや?というものを研究し、証明されたものの一部が学校で習う数学であって、冒頭の文章題なんかは、「たまたま、更にその極一部が日常のものを数えたりする場合に便利に使えただけ」にすぎないと思っています。

 一方で試験などの「問題」というのは「出題者の意図との一致を以って正解とする」という概念があります。

聞いた事のある笑い話で、とある国語の問題で「このときの作者の気持ちを答えなさい」という問題を目の前にした子が、偶然にも作者の娘で、作者である父親に聞いたら「締め切りが・・・」という気持ちだったと答えられたなんてものがあります。

出題者の意図と作者本人の意図が異なっていたという笑い話ですね。

それだけに、十進数で出題されている以上十進数で答えますよといった、あまりに当然でしょうというものに関しては暗黙の了解でよいと思いますが、演算の性質のようなどちら側の考え方も存在しうるものにかんしては、問題文に書かなければ、式の立て方に関しての出題者の意図はないものとみなされても仕方ないですね。

 

 但し、だからと言って順序を無視しても良いと言っているわけではありませんよ、小学生諸君!。

四則演算の性質が分かっている上で、意図的に順序を変えるのと

分からないまま、順序が逆だったのとは大きく違います。

私が先生なら、前者は正解にしますが、後者は問題文に但し書きがあろうがなかろうが不正解にします。

 

 私がこの算数の議論について考える事ができるのも、それを考える事ができるだけの材料に支えられているからに他なりません。

順序は大切と考えられている方も、あくまで数学だと考えられている方も、また、別の考えをめぐらせた方も、それぞれにその考えを巡らせて論争できるだけの材料があり、ご縁があるからです。

この記事を読んだ人が「自分はこう考えるなぁ」と思えるのも全て同じです。

考える事ができる自分ではなく、先日の折り紙の話と同じ

おかげさまで考えるという仕上げ作業をさせてもらっているわけです。

なぜ「させてもらっている」という受身の書き方なのか。

これを機会に、どうか直接的にご縁があった先生や友達、ご両親といった方々にだけでも結構ですから、感謝してみませんか?

今の私というものを見詰め直すひとつのきっかけになっていただければ幸いに思います。