はいっ坊主

坊主が気まぐれに日々のご縁をしるします

見えないものを見る力

「学問」と「勉強」の違いを考えたことがありますか?

 

単純に字を見てもらうだけでも、「問うて学ぶ」のが学問で

「強いられて勉める」のが勉強と解釈できます。

「勉強しなさい」という親の言葉だけに限らず

より良い学校に入って、より良い就職をと考えることからくる

プレッシャーもまた「強いる」でしょうし

周囲に対するあせりや競争心もまた「強いる」に該当するでしょう。

 

 一方の学問は「強いられない」ものです。

強いられないのに学ぼうということには、そこには「探究心」であったり、軽いところでは「興味」があるからということになります。

入り口はそれで充分すぎるものだと思います。

勉強には、「目的を達するというゴール」があります。

例えば、試験に向けて漢字を覚えるとしましょう。

その時に、試験範囲外の漢字まで勉強しますか?

もし、勉強中に「この漢字はどうしてこういう部首を用いているのだろう?」

なんて考えから、それを調べることで試験範囲外の勉強をしたなら、それは

勉強ではなく「学問」です。

そこには「興味」が湧いているわけです。

学問にはゴールなんてありません。

「学ぶ」という表現が敷居の高さを感じるならば

「知りたがる」「知ろうとする」

と置き換えて読んでもらってもかまいません。

「ご近所の○○さん▲▲なんだって~」

「え???どういうこと?」

一緒です(笑)

勉強大嫌いな子供が「恐竜大好き」「宇宙大好き」「古代遺跡大好き」

買ってあげた図鑑や絵本、例えば漫画であっても解説された本。

楽しそうに読んでは「こうなんだよ!」と得意げな顔。

普段、真面目なドキュメンタリー番組なんかは見向きもしないのに

恐竜やら遺跡となれば、夢中になって見ている。

私に言わせれば、それは立派な学問です。

 

「好きこそものの上手なれ」

は、ただ何もないところに諺としてあるわけではないですし

「下手の横好き」

に関しては、当の本人がとても楽しんでいるのが予想にたやすいでしょう?

 

 そんな学問には、進めていくほどに時系列的な傾向が出てきます。

入り口は興味でも何でも良いのですが

それについて学んでいくと、そこから次々に脱線を求められることになります。

私が仏教を学ぶ際も同じで

宗派の教義を学ぶと、その教義の根拠を求めるようになります。

その根拠は複数の経典であったり論述であったりするわけですが

それを学ぶと、さらにその根拠や出所を学ぶ必要がでたり・・・

とキリがありません。

時には、大きな声では言えませんが教義に関して疑う

ところにまでいくことも珍しくありません。

結果、では「どうして?」という疑問がしきりなしに手を変え品を変え襲ってきます。

一つ疑問を潰そうとすると、さらにねずみ算式に増えた疑問が帰ってくるのですから

ゴールなんて見えるどころか、設定のしようもありません。

また、坊主なんてやっていますと、お話をする機会も珍しくありません。

人に教えていると、自分の中で理解している”つもり”だったものが露呈してきます。

わかりやすく例えてあげたくても、例えてあげられないと

充分な理解に到達していない事を思い知らされます。

 

『学びて然る後に足らざるを知る
    教えて然る後に困しむを知る』

 

実にうまいことを言ったものだと感心するばかりです。

しかし、まだまだ未熟ながらも、日々少しずつながら

問いを潰していけているのは分かります。

もっとも、それ以上の問いが戻ってきますけどね(苦笑)

同時に人間の「想像力」もどんどん酷使されているのが分かります。

あたかも現場を検証して思考を重ね、少しずつ事件の全貌が見えてくる

推理小説のように、全く異なる疑問からつぶした「問い」の答えが

いくつか出揃ってきたところで、「あれ?もしかしてこういうこと?」

といった事が多々あるのです。

これがまさに、タイトルにもした「見えないものを見る力」です。

 

 パソコンを触った事がない人に、パソコンを操作しなさいと言っても

何をどうして良いのか分かりません。

パソコンを立ち上げなさいといったら、キーボードを懸命に立てようとしていたなんて笑い話を聞いた事がありますが、まさにそんな状態です。

ある程度パソコンに慣れた人だと、初めて使うソフトでも何となく基本の使い方の予想ができたり、最低限の事はできたりしますが、パソコンに触った事がない人には

そんな事はできるはずもなく、挙動不審にキョロキョロするしかないでしょう。

パソコンの事を全く知らない人、少し知っている人、慣れている人では

先述した「使い方の予想」の出来方が雲泥の差として現れます。

 「あれ?もしかしてこういうこと?」

が出来るのは、「それができるだけの材料を持っているから」です。

人はそれを「経験(実践)」だったり「知識」だったり「知恵」だったりと呼びますが

理解の深さは、見えないものを見る力に比例しています。

もう少し違った目線でみてみましょうか。

そのパソコンに触った事がない人が、触る機会を経た後に街にでますと

「パソコン教室」「パソコン関連の本」など

今まで気付かなかった看板や本のタイトルに目が行くようになります。

 今までもそこにあったもの、にもかかわらず、今までは見えていなかったもの

が見えてくるようになったわけですね。

これも一つの「見えないものを見る力」だと思います。

自らに関連したことにより、意識が行くようになった。

その結果、そのままでは見えないままのはずだったものが

見えるようになったのですから。

 

 知識や経験というものが、多ければ多いほど

「見えないものを見せてくれる」

ことに繋がるのがお分かりいただけましたか?

その知識や経験というのは、

『学問』

と共にあるのもお分かりいただけたでしょうか?

学ぶ事は困しい事ではあっても苦しい事ではないんです。

勉強は苦しい事である場合が多いかもしれません。

「困しい」は困るという字の通り、次から次へと疑問が湧いたり

足りなさを思い知らされたりしますが

でも、同時に結構楽しいことも多いんです。

可愛がっているペットが、やんちゃをして

「困っちゃうわー」

と言いながらも、笑顔でまんざらでもないような

そんな心境に近いかもしれません。

 

 人間の生涯に嫌でもつきまとう様々な苦しみ。

その苦しみを解決するには、苦しみについての理解が必要です。

何を学問しましょう?

ヒントは仏教にありますよ。

身の丈にあわせた解決方法が用意されています。

法要の席等で行われる「法話」を聴聞されたことがありますか?

私の周囲でも、若い世代の人で「最近は法話を聞くのが結構趣味なんです」

なんてお話されている方がいます。

当事者の一人という贔屓目を抜きにしても、

実際に、結構面白いものなんですよ。

 

 このブログでも少しずつ紹介できればと考えていますので

興味を持たれた方は、共に学問しませんか?