透明である理由
最近、スーパーやコンビニ等で飲料を見ていると、無色透明なもののラインナップの豊富さが目に留まります。
正直に申しまして、例えば紅茶は、あの茶色だからこそ美味しそうに見えるのであって、透明の紅茶という時点で、美味しくなさそうに思えてしまいます。
透明なのに、ちゃんと紅茶の味がする・・・という面白さはあるかもしれませんが、それは最初の一度だけで、果物系の飲料、コーラ等の炭酸飲料、果てはコーヒーまで透明というのは、流行を通り越してやりすぎを感じてしまいます。
この透明飲料がこれだけ出た理由の一つに、公務員の方々の声があるという話があります。
多くの方は、そんなことは言わないと思いますが、一部から厳しい声があるのだそうで、例えば仕事中にコーラ等で水分補給をしていると苦情がくるのだとか。
私としては、その時点で理解に苦しんでしまうわけですが、知り合いの公務員の方々のお話を伺っておりますと、実際にそういった苦情が寄せられるようです。
「経費で買うわけではないのでしょ?」
と訊ねますと、勿論自分の財布から出していると答えます。
それでも、水じゃないと苦情の対象になるのだとか。
なにが問題なのか、私にはさっぱり分からないのですが、彼らも同じく分からないけれど苦情が来るからそういうお達しが出ていると言います。
一旦、一般の企業に話を移しましょう。
今年は特に暑い年になっておりますが、例えば、営業職の方が、暑い中汗を流して営業をしています。そんな中、自販機でジュースを買って一息入れつつ水分補給を行っています。
それを見た人は
「けしからん!」
とは言いません。
多くは、ただの夏の風景でしかなく、気にかける人でも「暑い中大変だね。」という反応でしかありません。
しかしこれが、公務員だと途端に苦情に変わるわけです。
先日、庭木の手入れをしたあと、境内で枝葉を燃やしておりました。
その日も暑い日でしたが、火を扱うわけですから、目を離すわけにはまいりません。
汗が滝のように流れ出て、巻いたタオルもあっという間に絞れるようになっておりました。
熱中症の話もありますし、こまめな水分補給をするべく消費したペットボトルは3本にもなりました。
そんな中、地元の消防署の職員の方々が、消火栓の点検にまわってきました。
暑い中、熱を吸収しやすい紺を基調とした長袖の制服を着て、汗を流しながら点検にまわっております。
「火には充分気をつけて下さいね」
私への声かけも元気よくきびきびと境内の脇の道沿いの消火栓を点検して、次の消火栓へと歩いていかれました。
もう少しのんびりと会話できるような動き方でしたら、冷たいお茶をさしあげたかったのですが、早足で颯爽と移動していかれ、その機会を失してしまったわけですが、彼らは確認できた限りでは、ペットボトルどころか水筒一つもっておりませんでした。
もし彼らが自販機でジュースを買い休憩をしていても、私は「当然」の事として受け取ります。むしろ、休憩して当然と考えると思います。
公費でジュースを購入してというのであれば、百歩譲って分からなくはありませんが、そうではなくても認められない環境。
どう考えても理解できないのは私だけでしょうか?
私個人の考えで申しますと、消防隊員は、緊急の際には何を差し置いてでも駆けつけ対処しなければならない方々です。その間、休憩もとっていられません。
しかし、彼らのそういった活動があるからこそ、私たちの安全が保たれるわけです。
救急車を呼んだのに、救急隊員が熱中症で動けませんでは話にならないわけです。
ですから、平素からいざという時に備えていつでも動けるように万全の健康状態を維持しておくこともまた、大事な職務のひとつなのではないのかと思うのです。となると、そのために必須である水分は公費でまかなわれて当然ではないのか?とさえ考えています。
それが、自費であっても駄目という理由は何でしょう?
一度苦情を申す方にうかがってみたいものです。
ある日、そんな話をしておりましたところ、公務員の給料は税金から出ているから駄目なのだというご意見がある事を聞きました。
正直申しまして、全く分かりません。
例えば、必要以上に公費を使って、必要以上のエネルギーをがぶがぶと摂取しているのであれば、その苦情は当然でしょう。
しかし、先ほども申しましたように、必要なものを必要なだけ摂取して頂くのは、「私たち自身の為」でもあるわけです。公的機関である必要があり、私たちの安全の為に、私たちができない事を、担って頂いているのですから、まさに税金の出番だと思うのです。
彼らは、危険な状況にも対応できるように、日々の訓練を欠かしません。
時間があればトレーニングをします。緊急時に支障をきたさないように、旅行に行くにも申請しなければいけません。
まさに緊急時のプロフェッショナルです。
どこの一般企業に、勤務中、勤務時間外まで常に会社の為に供えて、時間があれば、自ら厳しいトレーニングをしている人がいましょうか?
ただただ頭の下がる思いが致します。
先ほど、ネット上で少しニュースを見ておりましたところ、部活動への教師の負担を減らすというニュースがありました。
これは教育の現場の方からの声を何度も聞いている私としては、「遅い」というのが率直な感想だったわけですが、ネット上につけられたレスに目を疑いました。
過度な指導による危惧に関するご意見はごもっともな部分も多いのですが
部活動が必要ないというご意見。
教師を罵倒するようなご意見。
オンパレードです。
部活動は学校が主宰する必要はなく不必要で、やりたければ各自で団体に所属したり習いに行けばよいというわけですが、そもそも、習い事等をするには経済的な負担が生じます。それらは安価なものからかなりの高額になるものまであります。
全ての家庭でそれが可能であるわけがありません。
しかし、部活動であれば、学校側から備品を貸してもらって取り組む事もできますし、月謝というものもありません。
部活によっては部費を集める場合もあるでしょうが、月謝の比ではありません。
まず部活動には、そういった「子供のやりたい事を学ぶための機会である」という面がある事を忘れてはいけないと思うのです。
また、部活動という枠組みでの同年代が集う場での活動であるからこそ学べる事も多々ありますし、そんな中から成長していく面も多々あります。
勉学が苦手な子が、部活動をがんばって進学の助けになる事もありますし、中には将来へとつながるご縁となっている場合もあります。
私の知っている方にも何名か、部活動で始めたことを続けてプロになられた方がおります。
それを、教師の負担が増えていて、事故もあるぐらいなら不必要とは少し短絡的ではないか、厳しく言えば、面倒事の放棄と思うのです。
人のやることですから、時に事故もあるでしょうし、過度な指導等が原因で取り返しがつかない結果になってしまうこともあるでしょう。
人が火を扱えば時に危険なこともあります。過度な注文によって管理があまくなり火事になる事もあるかもしれません。
なので、飲食店は不必要です。
とはならないでしょう?
そういった事故を起こさないためにどうしたらよいのか
充分に検討し対策した上で、将来を見越して取り組む事が大事だと思うのです。
次に教師への罵倒に関してですが、これは論外です。
あまりに思慮がなさすぎます。
教師の朝は早いですよ。子供達の中には、保護者の朝が早かったり等、様々な理由で登校完了よりかなり早く登校してくる子達がいます。その時には学校は開いていなければならないのです。よくみかける「挨拶運動」や「交通安全週間」なんかをしているときは、さらに早いです。
知り合いの教師には4時半頃に起きて、5時半には学校に行くという方がおります。
学校で配られるお知らせのプリントやお手製のテスト、参考資料をまとめたプリントから掲示物まで、授業時間以外に先生がせっせと作っています。もちろん、授業計画、テストの採点から成績などの集計、提出物のチェック、健康診断があればその集計、職員会議にPTA会議、他校との情報交換会や連動。教育委員会とのやりとりや保護者の対応。日誌、報告書。部活指導もして、補導員として夜遅くまで警察と連絡を取りながら見回り。
学校に戻って、授業の準備や事務処理。そんな夜中にも保護者から電話がかかってきて対応。「家に帰るのは、早くても日付が変わる。忙しい時は2時間も寝られない日が続く」なんて笑っておっしゃっている知り合いの教師の言葉が脳裏をよぎります。
これで、残業という概念そのものがないのですから驚きです。
ところが昨今、世間の教師のイメージはひどいものです。
しかし、そんな教師ばかりどころか、1割でもそんな教師がいてごらんなさい。
そんな教育の現場が機能すると本気で思いますか?
現在、ほぼ全ての教育の現場は機能しているんです。
それがどういうことか、考えるまでもなくわかることでしょう。
どんな企業であっても、問題を起こす人が出てくることはあります。
教師や公務員は、公的な機関である以上目立ちます。
メディアからも注目されやすくなります。
しかしながら、ちょっと考えれば、現実は世間のイメージとはかけ離れたものであることぐらい想像にたやすいと思うのですが如何でしょうか?
では、話を戻しまして、そんな教師の部活動の負担は相当なものです。
安全に気を配り、他校との連携、試合や発表会ともなれば手配から移動まで顧問の仕事です。朝練だといえば、それに合わせて準備して出勤しますし、放課後も仕事が残っているからという理由は通じるはずもなく指導に赴く。部員からの相談や個別の指導は勿論、部内の雰囲気にも気を配る。
時に教師が指導者としての経験を経ていない部活の顧問に抜擢されれば、新たに勉強したり、他の指導者に習いに行ったり。
これを読まれた方は、もうお分かりのことと思いますが、これらは外部からは見えないかもしれませんが、考えてみれば当然そうやっているからこそ機能しているのです。
それらの負担が全て教師が背負っていると考えると、そのご苦労は相当なものです。
地域によっては、地元の方が指導の手伝いに来て下さる事もあります。
私が剣道をしていた頃にも、地元の少年剣道の先生方や剣道をしていた保護者方が空き時間を見つけては指導しに来て下さっておりました。
とはいえ、もしそこでなにか事故でもあれば、責任は顧問にいくわけですから、顧問の先生はお手伝いの方々に任せきってしまうわけにもまいりません。
そして先生としては、そういう中でも頑張って取り組む子供たちに、勝たせてあげたい、賞をとらせてあげたいと願うものです。
行き過ぎた指導はいけませんが、そんな多忙な中でも放棄せずにそう願う事というのは指導者としてはすばらしい事だと思います。
さて、長々と書き綴ってしまいましたが、以前のブログにも書きましたように、私としては、「考える」ことをしていただきたいと思うのです。
考えることは、色々なことに思いを馳せることです。他に目をやり、他を思いやり
そして自分を見つめることにもつながることです。
願わくば、これ以上思いやりのない理由を背負った透明な飲料が増えないことを。
「1+1」はいくつ?
一見簡単そうな計算の問題です。
「1+1」はいくつですか?
「-1-1」はいくつですか?
多くの人は、「1+1=2」、「-1-1=-2」とお答えになるでしょう。
それは、今現在の学校の算数や数学の答えとしては正解かもしれません。
出題者の意図と、回答者の意図が一致していますからね。
しかし、
「いついかなる場合にも、この計算式は成立しますか?」
と聞かれたら、あなたはどう答えますか?
この式の「1」とは何ですか?
面積ですか?質量ですか?個体数ですか?etc・・・・
例を出してみましょう。
卵を2つ使って卵焼きを1つ作りました。
卵の個数で考えれば1+1=あれれ?
「2個分じゃないか?」
と考えた方、殻が減る分はどうしますか?
重さで考えれば・・・
やはり同じです。
卵が全く同じ重さとは限りませんし、殻や殻に少しのこった白身。
油や味付けにつかった塩などの兼ね合いもでてきます。
このお話を「屁理屈だ」と片付けるのは簡単です。
私自身が、屁理屈とも取れる事など百も承知で書いておりますからね。
では、同じ料理の世界でこんな事を言われます。
昆布の出汁と、鰹の出汁が合わさると、その美味さは2倍どころか何十倍にもなる。
屁理屈だと思う方は、このことを計算式で表してみてください。
算数や数学というのは、あくまでも、分かり易い概念を定義して、初めて成立するものでしかありません。
「-1-1」についても考えてみましょう。
-1ってそもそも何ですか?
負という概念がいついかなるときにも成立するならよいですが、これもまた成立はしません。
マイナスというものの説明を、私たちはまず上手くできません。
桃太郎電鉄なんてゲームがあります。
サイコロを振って目的地を目指す双六ゲームですが、目的地にぴったり到着できないと、通り過ぎてしまいます。
これは足し算?引き算?
では、それを仮に引き算としましょう。
またオーバーしてしまって、逆側にきたらこれは足し算ですね?
では、目的地で別の方向に通り過ぎたらこれは何算ですか?
つまり、マイナスをベクトルだと考えるのであれば、では、マイナスでもプラスではない方向のベクトルはどうやって表しましょうか?
この矛盾を解消するべく、直線上にのみ成立しうるベクトルだとしましょうか。
この時点で桃太郎電鉄のいくつもの駅の存在を否定してしまいますが・・・。
それを見逃したとして・・・
畑に植えた大根を、成長のために間引きます。
結果、より大きな大根を得ます。
大根にしてみれば、より大きなスペースを得ます。
間引いた大根は漬物にするなどして決して間引いた瞬間に消滅はしません。
さぁ直線上のベクトルで説明してみてください。
時間経過や成長という概念は反則ですか?
私に言わせれば、そんな瞬間のがんじがらめの条件でしか成立しない事をもって
「数学とはなんぞや」問答していることのほうがよほど滑稽です。
成立するものには成立するが、しないものも当然ある。
これが現実でしょう。
世の中にある様々な事柄は、常に複雑です。
算数がいついかなる場合にも通用しているわけではないことを
皆さんは充分経験されているはずです。
しかし、それでも私たちは「算数」をとても大事にします。
わからない子がいたら、分からせようと躍起になります。
みなさんの中には、この算数のように
いつの間にやら絶対的な存在として崇められてしまっているもの
他にはありませんか?
「カレーの具は大きく切るに限る」
「この仕事をこなすにはまずこの書類から」
「野菜は体にいい」
「塩分は敵」
「どこそこの店は・・・」
「○○さんは・・・」
などなど・・・
もう一度問いましょう。
「1+1」はいくつですか?
雪の静けさ
雪と聞くとどういうイメージをお持ちでしょうか?
「寒い」「雪かきが面倒」「自分の地域ではあまり降らないから寂しい」
「ロマンチック」「ウインタースポーツ」等々
それぞれに様々なイメージをお持ちの事と思います。
私の住む地域では、毎年雪が降り積もります。幼い頃には、待ち焦がれて楽しんだ雪も、いつしか「面倒なもの」へと変わっていきました。
雪かきの重労働、雪道の運転、年に二度のタイヤ交換(家族の分も)・・・。
冗談交じりに「雪はスキー場にだけ降ればいい」なんて言ったりもしています。
そんな雪ですが、人間の勝手な都合が良くても悪くても、条件さえ整えば降るのが当たり前のものです。頭では分かっていても、ついつい「あぁ・・・積もるなぁ・・・」なんて考えてしまうところが、間違いなく悪人な人間ですね。
さて、風が殆どない雪が降り積もる夜中に、窓を開けてみた事がある方はどのぐらいいるのでしょうか?
換気の為に開けた事があるよという人もおられると思いますが、しばし雪の降る空間をじっくり感じた事があるという人は、あまり多くはないと思います。
雪というのは、雨等と違い、限りなく音を立てずに降り積もります。
そして、その気候的な特徴から、野生の生物は静かに身を潜めます。
降り積もった雪は、柔らかくもたくさんの空気を内部に抱えて、吸音材のような役割をはたし、人間の出す音をどんどん吸収してしまいます。
夜中ともなれば、その状態を顕著に感じ取ることができます。
虫の声、蛙の声、野生の動物や鳥が出す声や音。
それにくわえて、夏場等には、少し離れた所に走っている高速道路を走る車の音がしっかりと聞こえてきますが、それさえ聞こえません。
ただただ静寂の空間がそこに広がります。
その空間で耳をすませておりますと、「シーン」とは良く言ったものだと感心する音の世界がありますが、しばらくすると、気圧の関係や体調の関係で聞こえる事がある「ピーン」という音を限りなく小さくしたような音に気が付きます。
それが自然が発している音なのか、自分の耳で鳴っている音なのか、それは私には分かりません。
ただただ小さく「ピーン」と聞こえ、そこに意識を集中しすぎて、いつしか息を止めていた事に気が付き、ふと呼吸をします。
ピーンという音に、普段は感じない自分の普段の状態での呼吸音がそれに混じります。
体を動かすと、布がこすれる音もしっかり聞こえてきます。
本当になんでもないその静寂の時間に気がついたのは、私がまだ小学生の頃でした。
風のない雪の夜中、そんな時間には、今でもふと窓を開けて、その静寂という名の音の世界を楽しむのが好きです。
いつしか寒くなり、窓を閉めると、そこは途端に俗世の音の世界になります。
そんな中で動き出す暖房の音の後ろで、あの静寂の音が聞こえているような気がして少し名残惜しさを感じると同時に、人間として生きているのだという実感がひしひしと感じられます。
様々な生命が、それぞれに様々な思いの中で生きている世界であることを感じます。
何故かは、わかりませんが、静寂の世界に、穢土にはないものを感じているのかもしれませんね。
現在外には雪が積もっています。
その中で、私の雪のささやかな楽しみ方をしたためてみました。
本の値段
厚さ1センチ程度しかない無名の作者の本のお値段が2000円。
これを高いと思いますか?安いと思いますか?
インターネット上を見ておりますと、同じような話題をあちらこちらで見かけます。
良く見かける意見風に、この質問に答えてみます。
「同じようなサイズの本でも、数百円で売られているものもあるから高い」
「無名の作者が、有名な作者よりも高いのはおかしい」
多く見かける意見はこんなところでしょうか。
さて、この意見を見てどう思いますか?
一見すると、ごもっともな意見に見えますが、その実はどうでしょうか。
まず、本を商品にするまでに、多くの人が携わります。
編集をする人、印刷や製本する人・・・。
当然ですが人件費が発生します。
また、紙やインク代といったコストもかかります。
これらの経費が出せないのであれば、本は商品になりません。
個人や出版社といった所が、この経費を負担し、後々売り上げによって回収することになります。
そして、経費を上回ったものが利益となるわけですが、その利益から
商品となった後に携わった人や作者の収益が生じます。
わざわざ書かなくても、皆が分かりきっていることですよね。
では、数字が大きすぎて混乱を招くといけませんので現実よりも少ない数で例えてみましょう。
まず、業者が請け負ってくれる最低印刷数でもある、1000冊あたりの経費が合計10万円だったとしましょう。
3000冊以上発注の場合には1000冊当たり8万円にできます。
A出版の無名さんの本は、売り上げの見込みが200冊です。
B出版の有名さんの本は、売り上げの見込みが5000冊です。
A出版無名さんの本は、500円で見込みどおり売れてやっと元が取れます。
無名さんの生活や出版社の利益を考えると、あれよあれよと2000円ぐらいで売るしかなくなります。
同時に在庫800冊を背負ってしまいます。
その結果得られる利益は30万円です。
一方のB出版有名さんの本は、80円で見込みどおり売れれば元が取れてしまいます。
500円で売ったとしても、見込みどおり売れれば210万円の利益を上げる事ができます。
これが、考えて見れば当たり前な、高い本、安い本のメカニズムの基本です。人気のある作家やジャンル、宣伝力のある出版社や売り上げ見込みが確実に見込める市場を持っているといった背景があれば安くなりますが、専門書などの売り上げ見込みが厳しいもの、無名の作者や不人気の作者といった場合には、どうしても値段を高く設定するしかなくなります。
もしA出版無名さんの本を、B出版有名さんと同じ値段にしたとしたら、商品となった本によって利益を得る人は誰もいない、無名さんも宣伝等に関わった人も流通に関わった人も皆タダ働き、人によっては赤字になってしまいます。
それでも、A出版無名さんはB出版有名さんと同じ値段まで下げなければなりませんか?
では良く見かけるご意見をもう一度みてみましょう。
「同じようなサイズの本でも、数百円で売られているものもあるから高い」
「無名の作者が、有名な作者よりも高いのはおかしい」
改めて、この意見をどう見ますか?
消費者の個人的な立場から見た場合、予算との兼ね合いであったり、類似した本の有無であったりといった様々な事情から
「高い」と判断する事も当然あるでしょう。
なので、2000円の本を高いと言う人が大勢いても何もおかしくありません。
実際にお財布から出て行く金額は無名さんの本の方が多いですからね。
しかし、他に安い本があるから高い、無名なのに高いという意見には違和感を覚えませんか?
もしあなたが、A出版や無名さんの立場だったら、この意見がどう見えますか?
むしろ、B出版有名さんの本が1000円(利益460万)で売られていたら、視点によっては、そっちの方があくどいと思いませんか?
2000円を高いと思う人は買わないですし、その価値があると思う人は買うでしょう。
それで良いのではないですか?
今回の記事は、考えてみれば当たり前の事しか書いていませんが、世の中にはその当たり前を見落としてしまっている人が少なからず存在していることを感じませんか?
身近なところですと、スーパーへ買い物に行った時の値段や、近所のケーキ屋さんのケーキのサイズと値段など・・・。
チーズケーキがA店では350円なのにB店は少し小さいのに430円もする!
高い安いを感じる事、買う買わないは個々の事情があって当然です。
B店はA店より小さいケーキを高く売っていて損。
なんて考えてしまったことはありませんか?
井戸端会議中に、「あの店は高い」なんて話題にしてしまったことはありませんか?
もしかしたらA店はコスト100円で売値350円、B店はコスト250円で売値430円かもしれませんよ?
もしそうだとしたら、安い材料で大きめの利益を被せている店を褒めて、質の良い材料を使い低い利益でがんばっている店を批判しているのかもしれませんよ。
もう少しつっこんでみましょうか。
出版社や作者が値段を設定するのと同じく、私たちが普段何気なく行っている発言や行動等には一つ一つに背景があります。
悪気はなくても、迷惑をかけてしまう事もあれば、何もしていないつもりが、お礼を言われるようなこともあります。
値段設定の例ように、そうするしかなく行動することも多いでしょう。
同じような状況で、Aさんのとった行動、Bさんのとった行動には違いがあって当然ですが、Aさんの行動はすばらしくて、Bさんの行動は残念な結果になるようなこともあるでしょう。
そんな二人をみて、あなたは何を思いますか?
背景を知ったら違和感を覚えてしまうような事を思いませんか?
私が子供の頃、近所の子と二人で学校からの帰り道でした。
季節は丁度冬で、道の脇には数十センチの雪が硬くなっておりました。
友人はその雪の上を歩いていて、突如太ももまで埋まってしまいました。
助けようとしますが、雪が硬くて掘れそうもありませんし、ひっぱっても抜ける様子がありません。
丁度テレビで凍傷の事を知ったばかりの私は、不安になり友人に待つように言い残し友人の家へと走りました。
友人の家につき、友人の祖父に事情を話すと
「置き去りにして一人で帰ってきたのか!」
と怒鳴られました。
この話からは、私自身にも、友人の祖父にも反省すべき点が伺えると思います。
あなたが私の立場だったらどう行動しますか?
あなたが友人の祖父の立場だったらどう行動しますか?
あなたが事情を知った第三者だったらどう見ますか?
(ちなみに友人は怪我ひとつなく無事でした)
私たち人間は、目立つもの、表面的なもの、自分勝手な思い込みや価値観に捉われて、視野が狭くなっていることに気が付かない癖があるというお話でした。
怒らない人は無し
「お坊さんあるある」とでも申しましょうか。
子供の頃から良く聞かれる事に
「お坊さんって怒らないの?」
というものがあります。
場合によっては「お坊さんが怒ったらいかん」なんてものも。
さて、皆さんはどのように考えられますか?
多くの場合、世の中の皆さんは何か大きな勘違いをなさっているようです。
まず、お坊さんと一口に言っても様々な宗派のお坊さんがおります。
厳しい修行をされる宗派もあれば、修行という概念がない宗派もあります。
お坊さんも人間ですから、赤ちゃんの時も、子供の時も当然ありました。とすれば、躾のされ方や育ってきた境遇も様々です。
つまり、一口にお坊さんといっても、それぞれの事情で差があって当然、無いほうがおかしいのです。
苦行を経て仏となった釈尊のイメージを、そのまま全てのお坊さんのあるべき当然の姿だと考えている方が非常に多いようですが、そうではありません。
そうなれたらそれは、お坊さんではなく「仏様」と言います。
ですからお坊さんにも当然喜怒哀楽はありますし、時に激しく怒り狂う事もあります。
それを見て、また勝手な思い込みから「修行不足」というのもまた、お門違いというものです。
立場上の我慢や感情のコントロールの仕方を少しは知っているという部分から、平均して考えると一般の方よりは沸点が高めの人が多いかもしれませんが、所詮はその程度の違いしかありません。
条件が整えば、怒ります。
私自身も割と温和と言われる方ですが、心の中では結構怒ってばかりいますし、時にそれを顕わにする事もあります。
歎異抄の中に、このような話があります。
親鸞聖人が、唯円に対して、「千人殺して来たら往生間違いないぞ」と伝えます。
それを聞いた唯円は、「いくら親鸞聖人の言葉でも、ただの一人さえ殺せない」と答えます。
その理由として、唯円が人を一人も殺せないのは「宿業」が備わっていないからだと教えています。
宿業というのは、分かり易くいえば「縁や条件」と捉えると良いでしょう。
怪我をさせる気なんてなくても、ふざけていて怪我をさせてしまった事があるという人も多いでしょう。中には「ちょっと痛い目みたほうがいいんだ」なんて考えてわざと怪我させたり、不利益を与えるような事をした事がある人も多いでしょう。
それらと何も違いはしないのです。
人を殺してやろうと思って車を運転している人は殆どいません。
しかし、交通事故による死者は後を絶ちません。
人を殺してやろうと思って仕事をしている人は殆どいません。
しかし、自社を守ろうと努めた結果取引先が苦境に立たされて自殺者を出してしまうという事もあります。
このように人の命でさえ、縁や条件が整ってしまえば、直接的でも間接的でも殺めてしまうことがあるのが私たち悪人である人間です。
そんな人間が、それよりももっと簡単でお手軽な「怒り」を引き出す縁や条件に触れるのは、どんなにたやすいことでしょう。
また人を殺めずに比較的平穏な生活を送っていられるのは、そういう良い方に働く宿業があるからです。
ついつい忘れてしまう私たちですが、こういった機会にその事を考え、そんなご縁に感謝して、日暮らしをさせて頂きたいものです。
少しだけ話のついでに付け加えさせて頂きます。
インターネット上では、匿名性があり、殆どの場合は互いの顔を見ません。
だからこそついつい忘れてしまっている人が多いようですが、インターネット上の様々なコンテンツを作り上げているのは、一人一人の人間です。
様々なやり取りをする向こう側にいるのは、間違いなく私たち一人一人の人間です。
より良いご縁を育み、お互いに気持ちよく楽しむためにも、その事を忘れずに接したいものです。
楽しむ権利を持つのは、自分も他人も同じです。
権利があれば、義務もあります。
義務を怠った人は、インターネット上で楽しむ権利がないのですよ。
明けましておめでとうございます
あけましておめでとうございます。
昨年思い立って始めたばかりのブログ故、まだまだ記事数は少ないですが、今年も時間を見つけては書いていきたいと思いますので、気になられた方がおられましたら、しばしお付き合い頂けると幸いです。
新年ということで、新年にまつわるお寺の思い出話をさせていただきます。
イメージとして「お坊さんは盆暮れ正月は忙しい」なんて思っていらっしゃる方も多いと思いますが、それは正しい認識で間違いありません。
正月には、ご門徒さんや近所の方々が、自坊へとやってきます。
私が中学生ぐらいの頃だったでしょうか。
冬休みにはいる前に、同級生たちが
「初詣、一緒に行かないか?」
といった話をしておりました。
当然といっては当然ですが、いわゆる初詣に人でにぎわう神社に行くという経験は一度もありませんでしたから、その話に加わって聞いておりますと、お祭りのようにお店のテントが立ち並び、大層楽しいという話をしているではありませんか。
思い返せば、幼い頃に
「うちは初詣って行かないの?」
なんて母親に聞いたこともありました。
「お御堂!」
と本堂を指差されましたが・・・。
そんな事が幾度か重なりまして、「初詣に行ってみたい」という欲求は募るばかりです。
そこで、学生時代に一度だけ、「世間の正月を経験しておく」という大義名分を掲げまして友人たちと夜中に初詣に行ってみました。
話に聞いていたとおり、深夜にも関わらずお祭りのような賑わいに出店の数々。
正直に申しまして、楽しませて頂きました。
しかし、それが後にも先にも、恐らく生涯に一度きりの体験でしょう。
お寺は、お迎えする側ですからね。
先のクリスマスの話と同様、お寺にいると、世間一般とは少し事情が違うお正月の思い出をご紹介させていただきました。
正月のピークも過ぎて、少し落ち着いたところで、ふと思い出しましたので、ご挨拶のついでに記載させて頂きました。
今年もまた、皆様と良いご縁が育める事を願いまして、新年のご挨拶に変えさせて頂きます。
うちのクリスマス
今年もクリスマスが過ぎていよいよ暮れも本番です。
クリスマスといえば、イエス・キリストの誕生日ということなので、仏教であるお寺には基本的に無関係です。
我が宗派は特にその色が強いですが、単純な聖人の誕生日を祝うというだけでなく、近年ではイベントとして捉えている人の方が多いのではないでしょうか?
と言いますのも、クリスマスが近づくと、お店というお店はクリスマス一色になり、プレゼントを見越した販売や広告が多くなります。
場所によってはイルミネーションやライトアップで飾られた街が目を楽しませ、洋菓子店は予約で大忙し。
ここまで大々的にクリスマスを迎えておきながら、教会に行く人はその内のどのぐらいいるのでしょう?
キリストに祈りを捧げようという人はどのぐらいいるのでしょう?
そもそもキリスト教徒の方はどのぐらいいるのでしょう?
そういう目線で見渡しますと、良くも悪くも日本らしいなと感じてしまうのでは私だけではないと思いますが、いかがでしょうか?
聞いた話ですが、お寺が保育園や幼稚園を経営しているようなところでは、仏教なので関係ない・・・とは目を輝かせる子供の手前なかなかできませんので、あれこれと苦労して苦肉の策を設けているところもあるのだとか。
私の子供の頃はどうだったのかと申しますと、割と早い段階で
「うちはお寺やからサンタさん関係ないよ!」
と言われておりました(笑)
それでも、周囲の子供たちの手前、何もしないわけにもいかないということで、ケーキぐらいは用意してありました。
クリスマスプレゼントも同じく、お菓子程度にされてしまっており、学校などで
「クリスマスなにもらった?」
「○○もらった!」
なんて会話が聞こえてくると、羨ましさを感じたものです。
シーズンが近づくと新聞に入るおもちゃ屋さんの広告を広げて、そこに描かれた夢のような世界に目を釘付けにされ、テレビのCMでは格好いいラジコンが走という時間に物欲が刺激されないわけがなく、期待だけはするものの、最後には諦めるという、ちょっと複雑な心境の子供時代を思い出します。
私個人としては、イベントとして楽しむのは特に問題ないと思いますが、周囲のお寺の方々の話を聞いておりますと、クリスマスの捉え方にも色々とあるようです。
毎年クリスマスが近づきますと、お寺のクリスマス事情が気になる方から
「お寺ってクリスマスどうしてるの?」
「お寺の子ってプレゼントとかあるの?」
なんて聞かれますので、この場を借りて私のクリスマスについて触れてみました。
今年も残すところあと僅か、風邪など引いて病床での年末年始とならないように、くれぐれもご注意いただきたいと思います。
生老病死と申しましても、避けられないものばかりではなく、注意することで防ぐ事ができる病があるのも事実ですからね。