はいっ坊主

坊主が気まぐれに日々のご縁をしるします

雪の静けさ

雪と聞くとどういうイメージをお持ちでしょうか?

「寒い」「雪かきが面倒」「自分の地域ではあまり降らないから寂しい」

「ロマンチック」「ウインタースポーツ」等々

それぞれに様々なイメージをお持ちの事と思います。

 

 私の住む地域では、毎年雪が降り積もります。幼い頃には、待ち焦がれて楽しんだ雪も、いつしか「面倒なもの」へと変わっていきました。

雪かきの重労働、雪道の運転、年に二度のタイヤ交換(家族の分も)・・・。

冗談交じりに「雪はスキー場にだけ降ればいい」なんて言ったりもしています。

 

 そんな雪ですが、人間の勝手な都合が良くても悪くても、条件さえ整えば降るのが当たり前のものです。頭では分かっていても、ついつい「あぁ・・・積もるなぁ・・・」なんて考えてしまうところが、間違いなく悪人な人間ですね。

 

 さて、風が殆どない雪が降り積もる夜中に、窓を開けてみた事がある方はどのぐらいいるのでしょうか?

換気の為に開けた事があるよという人もおられると思いますが、しばし雪の降る空間をじっくり感じた事があるという人は、あまり多くはないと思います。

雪というのは、雨等と違い、限りなく音を立てずに降り積もります。

そして、その気候的な特徴から、野生の生物は静かに身を潜めます。

降り積もった雪は、柔らかくもたくさんの空気を内部に抱えて、吸音材のような役割をはたし、人間の出す音をどんどん吸収してしまいます。

夜中ともなれば、その状態を顕著に感じ取ることができます。

 

 虫の声、蛙の声、野生の動物や鳥が出す声や音。

それにくわえて、夏場等には、少し離れた所に走っている高速道路を走る車の音がしっかりと聞こえてきますが、それさえ聞こえません。

ただただ静寂の空間がそこに広がります。

その空間で耳をすませておりますと、「シーン」とは良く言ったものだと感心する音の世界がありますが、しばらくすると、気圧の関係や体調の関係で聞こえる事がある「ピーン」という音を限りなく小さくしたような音に気が付きます。

それが自然が発している音なのか、自分の耳で鳴っている音なのか、それは私には分かりません。

ただただ小さく「ピーン」と聞こえ、そこに意識を集中しすぎて、いつしか息を止めていた事に気が付き、ふと呼吸をします。

ピーンという音に、普段は感じない自分の普段の状態での呼吸音がそれに混じります。

体を動かすと、布がこすれる音もしっかり聞こえてきます。

 

 本当になんでもないその静寂の時間に気がついたのは、私がまだ小学生の頃でした。

風のない雪の夜中、そんな時間には、今でもふと窓を開けて、その静寂という名の音の世界を楽しむのが好きです。

いつしか寒くなり、窓を閉めると、そこは途端に俗世の音の世界になります。

そんな中で動き出す暖房の音の後ろで、あの静寂の音が聞こえているような気がして少し名残惜しさを感じると同時に、人間として生きているのだという実感がひしひしと感じられます。

様々な生命が、それぞれに様々な思いの中で生きている世界であることを感じます。

何故かは、わかりませんが、静寂の世界に、穢土にはないものを感じているのかもしれませんね。

 

 現在外には雪が積もっています。

その中で、私の雪のささやかな楽しみ方をしたためてみました。

本の値段

厚さ1センチ程度しかない無名の作者の本のお値段が2000円。

これを高いと思いますか?安いと思いますか?

 

インターネット上を見ておりますと、同じような話題をあちらこちらで見かけます。

良く見かける意見風に、この質問に答えてみます。

「同じようなサイズの本でも、数百円で売られているものもあるから高い」

「無名の作者が、有名な作者よりも高いのはおかしい」

多く見かける意見はこんなところでしょうか。

 

 さて、この意見を見てどう思いますか?

一見すると、ごもっともな意見に見えますが、その実はどうでしょうか。

 

 まず、本を商品にするまでに、多くの人が携わります。

編集をする人、印刷や製本する人・・・。

当然ですが人件費が発生します。

また、紙やインク代といったコストもかかります。

これらの経費が出せないのであれば、本は商品になりません。

個人や出版社といった所が、この経費を負担し、後々売り上げによって回収することになります。

そして、経費を上回ったものが利益となるわけですが、その利益から

商品となった後に携わった人や作者の収益が生じます。

わざわざ書かなくても、皆が分かりきっていることですよね。

 

 では、数字が大きすぎて混乱を招くといけませんので現実よりも少ない数で例えてみましょう。

まず、業者が請け負ってくれる最低印刷数でもある、1000冊あたりの経費が合計10万円だったとしましょう。

3000冊以上発注の場合には1000冊当たり8万円にできます。

A出版の無名さんの本は、売り上げの見込みが200冊です。

B出版の有名さんの本は、売り上げの見込みが5000冊です。

 

A出版無名さんの本は、500円で見込みどおり売れてやっと元が取れます。

無名さんの生活や出版社の利益を考えると、あれよあれよと2000円ぐらいで売るしかなくなります。

同時に在庫800冊を背負ってしまいます。

その結果得られる利益は30万円です。

一方のB出版有名さんの本は、80円で見込みどおり売れれば元が取れてしまいます。

500円で売ったとしても、見込みどおり売れれば210万円の利益を上げる事ができます。

 

 これが、考えて見れば当たり前な、高い本、安い本のメカニズムの基本です。人気のある作家やジャンル、宣伝力のある出版社や売り上げ見込みが確実に見込める市場を持っているといった背景があれば安くなりますが、専門書などの売り上げ見込みが厳しいもの、無名の作者や不人気の作者といった場合には、どうしても値段を高く設定するしかなくなります。

もしA出版無名さんの本を、B出版有名さんと同じ値段にしたとしたら、商品となった本によって利益を得る人は誰もいない、無名さんも宣伝等に関わった人も流通に関わった人も皆タダ働き、人によっては赤字になってしまいます。

それでも、A出版無名さんはB出版有名さんと同じ値段まで下げなければなりませんか?

 

 では良く見かけるご意見をもう一度みてみましょう。

「同じようなサイズの本でも、数百円で売られているものもあるから高い」

「無名の作者が、有名な作者よりも高いのはおかしい」

改めて、この意見をどう見ますか?

 

消費者の個人的な立場から見た場合、予算との兼ね合いであったり、類似した本の有無であったりといった様々な事情から

「高い」と判断する事も当然あるでしょう。

なので、2000円の本を高いと言う人が大勢いても何もおかしくありません。

実際にお財布から出て行く金額は無名さんの本の方が多いですからね。

しかし、他に安い本があるから高い、無名なのに高いという意見には違和感を覚えませんか?

もしあなたが、A出版や無名さんの立場だったら、この意見がどう見えますか?

むしろ、B出版有名さんの本が1000円(利益460万)で売られていたら、視点によっては、そっちの方があくどいと思いませんか?

2000円を高いと思う人は買わないですし、その価値があると思う人は買うでしょう。

それで良いのではないですか?

 

 今回の記事は、考えてみれば当たり前の事しか書いていませんが、世の中にはその当たり前を見落としてしまっている人が少なからず存在していることを感じませんか?

 

 身近なところですと、スーパーへ買い物に行った時の値段や、近所のケーキ屋さんのケーキのサイズと値段など・・・。

チーズケーキがA店では350円なのにB店は少し小さいのに430円もする!

高い安いを感じる事、買う買わないは個々の事情があって当然です。

B店はA店より小さいケーキを高く売っていて損。

なんて考えてしまったことはありませんか?

井戸端会議中に、「あの店は高い」なんて話題にしてしまったことはありませんか?

もしかしたらA店はコスト100円で売値350円、B店はコスト250円で売値430円かもしれませんよ?

もしそうだとしたら、安い材料で大きめの利益を被せている店を褒めて、質の良い材料を使い低い利益でがんばっている店を批判しているのかもしれませんよ。

 

 もう少しつっこんでみましょうか。

出版社や作者が値段を設定するのと同じく、私たちが普段何気なく行っている発言や行動等には一つ一つに背景があります。

悪気はなくても、迷惑をかけてしまう事もあれば、何もしていないつもりが、お礼を言われるようなこともあります。

値段設定の例ように、そうするしかなく行動することも多いでしょう。

同じような状況で、Aさんのとった行動、Bさんのとった行動には違いがあって当然ですが、Aさんの行動はすばらしくて、Bさんの行動は残念な結果になるようなこともあるでしょう。

そんな二人をみて、あなたは何を思いますか?

背景を知ったら違和感を覚えてしまうような事を思いませんか?

 

 私が子供の頃、近所の子と二人で学校からの帰り道でした。

季節は丁度冬で、道の脇には数十センチの雪が硬くなっておりました。

友人はその雪の上を歩いていて、突如太ももまで埋まってしまいました。

助けようとしますが、雪が硬くて掘れそうもありませんし、ひっぱっても抜ける様子がありません。

丁度テレビで凍傷の事を知ったばかりの私は、不安になり友人に待つように言い残し友人の家へと走りました。

友人の家につき、友人の祖父に事情を話すと

「置き去りにして一人で帰ってきたのか!」

と怒鳴られました。

この話からは、私自身にも、友人の祖父にも反省すべき点が伺えると思います。

あなたが私の立場だったらどう行動しますか?

あなたが友人の祖父の立場だったらどう行動しますか?

あなたが事情を知った第三者だったらどう見ますか?

(ちなみに友人は怪我ひとつなく無事でした)

 

 私たち人間は、目立つもの、表面的なもの、自分勝手な思い込みや価値観に捉われて、視野が狭くなっていることに気が付かない癖があるというお話でした。

怒らない人は無し

「お坊さんあるある」とでも申しましょうか。

子供の頃から良く聞かれる事に

「お坊さんって怒らないの?」

というものがあります。

場合によっては「お坊さんが怒ったらいかん」なんてものも。

 

さて、皆さんはどのように考えられますか?

 

 多くの場合、世の中の皆さんは何か大きな勘違いをなさっているようです。

まず、お坊さんと一口に言っても様々な宗派のお坊さんがおります。

厳しい修行をされる宗派もあれば、修行という概念がない宗派もあります。

お坊さんも人間ですから、赤ちゃんの時も、子供の時も当然ありました。とすれば、躾のされ方や育ってきた境遇も様々です。

つまり、一口にお坊さんといっても、それぞれの事情で差があって当然、無いほうがおかしいのです。

 

 苦行を経て仏となった釈尊のイメージを、そのまま全てのお坊さんのあるべき当然の姿だと考えている方が非常に多いようですが、そうではありません。

そうなれたらそれは、お坊さんではなく「仏様」と言います。

ですからお坊さんにも当然喜怒哀楽はありますし、時に激しく怒り狂う事もあります。

それを見て、また勝手な思い込みから「修行不足」というのもまた、お門違いというものです。

立場上の我慢や感情のコントロールの仕方を少しは知っているという部分から、平均して考えると一般の方よりは沸点が高めの人が多いかもしれませんが、所詮はその程度の違いしかありません。

条件が整えば、怒ります。

私自身も割と温和と言われる方ですが、心の中では結構怒ってばかりいますし、時にそれを顕わにする事もあります。

 

 歎異抄の中に、このような話があります。

親鸞聖人が、唯円に対して、「千人殺して来たら往生間違いないぞ」と伝えます。

それを聞いた唯円は、「いくら親鸞聖人の言葉でも、ただの一人さえ殺せない」と答えます。

その理由として、唯円が人を一人も殺せないのは「宿業」が備わっていないからだと教えています。

宿業というのは、分かり易くいえば「縁や条件」と捉えると良いでしょう。

怪我をさせる気なんてなくても、ふざけていて怪我をさせてしまった事があるという人も多いでしょう。中には「ちょっと痛い目みたほうがいいんだ」なんて考えてわざと怪我させたり、不利益を与えるような事をした事がある人も多いでしょう。

それらと何も違いはしないのです。

人を殺してやろうと思って車を運転している人は殆どいません。

しかし、交通事故による死者は後を絶ちません。

人を殺してやろうと思って仕事をしている人は殆どいません。

しかし、自社を守ろうと努めた結果取引先が苦境に立たされて自殺者を出してしまうという事もあります。

 

 このように人の命でさえ、縁や条件が整ってしまえば、直接的でも間接的でも殺めてしまうことがあるのが私たち悪人である人間です。

そんな人間が、それよりももっと簡単でお手軽な「怒り」を引き出す縁や条件に触れるのは、どんなにたやすいことでしょう。

 また人を殺めずに比較的平穏な生活を送っていられるのは、そういう良い方に働く宿業があるからです。

ついつい忘れてしまう私たちですが、こういった機会にその事を考え、そんなご縁に感謝して、日暮らしをさせて頂きたいものです。

 

 少しだけ話のついでに付け加えさせて頂きます。

インターネット上では、匿名性があり、殆どの場合は互いの顔を見ません。

だからこそついつい忘れてしまっている人が多いようですが、インターネット上の様々なコンテンツを作り上げているのは、一人一人の人間です。

様々なやり取りをする向こう側にいるのは、間違いなく私たち一人一人の人間です。

より良いご縁を育み、お互いに気持ちよく楽しむためにも、その事を忘れずに接したいものです。

楽しむ権利を持つのは、自分も他人も同じです。

権利があれば、義務もあります。

義務を怠った人は、インターネット上で楽しむ権利がないのですよ。

明けましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。

昨年思い立って始めたばかりのブログ故、まだまだ記事数は少ないですが、今年も時間を見つけては書いていきたいと思いますので、気になられた方がおられましたら、しばしお付き合い頂けると幸いです。

 

 新年ということで、新年にまつわるお寺の思い出話をさせていただきます。

イメージとして「お坊さんは盆暮れ正月は忙しい」なんて思っていらっしゃる方も多いと思いますが、それは正しい認識で間違いありません。

正月には、ご門徒さんや近所の方々が、自坊へとやってきます。

私が中学生ぐらいの頃だったでしょうか。

冬休みにはいる前に、同級生たちが

「初詣、一緒に行かないか?」

といった話をしておりました。

当然といっては当然ですが、いわゆる初詣に人でにぎわう神社に行くという経験は一度もありませんでしたから、その話に加わって聞いておりますと、お祭りのようにお店のテントが立ち並び、大層楽しいという話をしているではありませんか。

思い返せば、幼い頃に

「うちは初詣って行かないの?」

なんて母親に聞いたこともありました。

「お御堂!」

と本堂を指差されましたが・・・。

そんな事が幾度か重なりまして、「初詣に行ってみたい」という欲求は募るばかりです。

そこで、学生時代に一度だけ、「世間の正月を経験しておく」という大義名分を掲げまして友人たちと夜中に初詣に行ってみました。

話に聞いていたとおり、深夜にも関わらずお祭りのような賑わいに出店の数々。

正直に申しまして、楽しませて頂きました。

しかし、それが後にも先にも、恐らく生涯に一度きりの体験でしょう。

お寺は、お迎えする側ですからね。

先のクリスマスの話と同様、お寺にいると、世間一般とは少し事情が違うお正月の思い出をご紹介させていただきました。

正月のピークも過ぎて、少し落ち着いたところで、ふと思い出しましたので、ご挨拶のついでに記載させて頂きました。

 

 今年もまた、皆様と良いご縁が育める事を願いまして、新年のご挨拶に変えさせて頂きます。

うちのクリスマス

 今年もクリスマスが過ぎていよいよ暮れも本番です。

クリスマスといえば、イエス・キリストの誕生日ということなので、仏教であるお寺には基本的に無関係です。

我が宗派は特にその色が強いですが、単純な聖人の誕生日を祝うというだけでなく、近年ではイベントとして捉えている人の方が多いのではないでしょうか?

と言いますのも、クリスマスが近づくと、お店というお店はクリスマス一色になり、プレゼントを見越した販売や広告が多くなります。

場所によってはイルミネーションやライトアップで飾られた街が目を楽しませ、洋菓子店は予約で大忙し。

ここまで大々的にクリスマスを迎えておきながら、教会に行く人はその内のどのぐらいいるのでしょう?

キリストに祈りを捧げようという人はどのぐらいいるのでしょう?

そもそもキリスト教徒の方はどのぐらいいるのでしょう?

 

 そういう目線で見渡しますと、良くも悪くも日本らしいなと感じてしまうのでは私だけではないと思いますが、いかがでしょうか?

聞いた話ですが、お寺が保育園や幼稚園を経営しているようなところでは、仏教なので関係ない・・・とは目を輝かせる子供の手前なかなかできませんので、あれこれと苦労して苦肉の策を設けているところもあるのだとか。

 

 私の子供の頃はどうだったのかと申しますと、割と早い段階で

「うちはお寺やからサンタさん関係ないよ!」

と言われておりました(笑)

それでも、周囲の子供たちの手前、何もしないわけにもいかないということで、ケーキぐらいは用意してありました。

クリスマスプレゼントも同じく、お菓子程度にされてしまっており、学校などで

「クリスマスなにもらった?」

「○○もらった!」

なんて会話が聞こえてくると、羨ましさを感じたものです。

シーズンが近づくと新聞に入るおもちゃ屋さんの広告を広げて、そこに描かれた夢のような世界に目を釘付けにされ、テレビのCMでは格好いいラジコンが走という時間に物欲が刺激されないわけがなく、期待だけはするものの、最後には諦めるという、ちょっと複雑な心境の子供時代を思い出します。

 

 私個人としては、イベントとして楽しむのは特に問題ないと思いますが、周囲のお寺の方々の話を聞いておりますと、クリスマスの捉え方にも色々とあるようです。

毎年クリスマスが近づきますと、お寺のクリスマス事情が気になる方から

「お寺ってクリスマスどうしてるの?」

「お寺の子ってプレゼントとかあるの?」

なんて聞かれますので、この場を借りて私のクリスマスについて触れてみました。

 

 今年も残すところあと僅か、風邪など引いて病床での年末年始とならないように、くれぐれもご注意いただきたいと思います。

生老病死と申しましても、避けられないものばかりではなく、注意することで防ぐ事ができる病があるのも事実ですからね。

あなたの好きなものは?

「美味しいものには目がないんです」

と言いながら、わざわざ美味しいものや店を探したりはしない。

中には

「美味しい店を探して美味しいものに出会うのが楽しみです」

と口に言いながら、外食するときには、ついつい有名店やチェーン店などに入ってしまう。

なんて人も。

 

身に覚えがある人も結構いるのではないでしょうか。

結果、時には美味しい食材の仕入れが取りやめになったり

美味しい店が、店をたたんでしまうことになったり。

 

「本当に美味しいなら、そんなこと関係ない」

「それは本当に美味しくなかったからだ」

 

なんて言い聞かせて誤魔化していませんか?

「本当に美味しいなら、自分一人が行かなくても(買わなくても)、他人が判断して流行らせてくれるから、そうしたら行けば(買えば)いい」

それは言い換えてしまえばこういうことです。

 

グルメの話を例に出しましたが、他でも一緒です。

ファッションだったり、日用品だったり、家電だったり、音楽だったり、イラストだったり、ゲームだったり・・・。

 

私たち人間は、本質的に怠惰で我侭なものです。

願望を声高らかに宣伝して歩いても、身近に妥当なものがあれば、ついついそれで誤魔化してしまうものです。

時には知名度のある評価があれば、それが正解なんだと思い込んでしまいます。

全てにおいてとは申しませんが、ついついそうしてしまっている事は、人間誰しもがあるものです。

 

「この人はとても良い人だから、結婚しなさい」

なんて言われても、絶対に嫌だと言いますが

「この冬は○○ファッションが人気!」

なんて雑誌に書いてあると、自分の趣味にぴったりでなくても飛びついていませんか?

 

では、ここで問うてみましょう。

 

あなたの好きは、あなた自身が判断していますか?

温かなご縁のおはなし

 あれから何年になるでしょうか。

年始に、ご挨拶に回っておりました。

両手には荷物がいっぱいという状況の中、突如みぞれが降り始めました。

みぞれはみるみるうちに本格的な雪となり、両手が塞がっている私は、傘(そもそも持って出ておりませんでしたが)をさすどころか、頭に積もった雪を払うこともままならないまま、時間的な都合もありそのままご挨拶を続けておりました。

そんな中お邪魔した家でのこと、私の状態を見た方が、タオルを用意してくれた上に、両手の塞がっている私の頭から服まで一所懸命に拭いてくれるのです。

荷物を置けば自分で拭ける状況ですし、私自身もういい大人であるにも関わらず、まるでずぶぬれの子供を拭くかのように真剣にです。

親しい方の家やご門徒さんの家でしたら、まだ話もわかりますが、そうではない家での事でした。

身内であっても「お父さんのパンツと一緒に洗わないで」なんて家庭もあるという悲しい話も耳にするご時世に、話もしたことのない、見知らぬ中年おじさん(まだ認めていませんが)を相手に、なかなかできることではないです。

 

 私ならどうしただろう?

例えば、面識のない宅配業者の中年男性がずぶぬれで荷物を持ってきたとしたら。

何もしないか、せいぜいタオルを手渡すぐらいでしょう。

拭いてあげるところまでは絶対にしない自信があります。

お読みになっているみなさんはどうですか?

見知らぬ中年男性がずぶ濡れで訪ねて来たら、タオルを用意しますか?拭いてあげますか?

 

 その時の私は、恥ずかしいやら申し訳ないやら、しかし同時に、本当に温かい気持ちがどんどん満ちていくのを感じました。

その心が本当に嬉しかった!

その時の事を、私は生涯忘れることはないでしょう。

あの時のタオルほど温かいタオルは、これまで経験した事ありませんでした。

親しい間柄で、拭いてもらった事は数知れずあります。

それは、私の中で「してもらえて当たり前」と思っていたのでしょうし、実際に例えば親が濡れた子供を拭くというのは、多くの場合むしろ当たり前の事でもあります。

 

 今現在、当時の私と同じような状況があれば、私は迷わずタオルを用意して拭きます。

「困っている人に親切にしましょう」

なんて小学校で習った記憶がありますが、簡単な親切ならする人も多いものです。

先の例でいえば「これで拭いてください」とタオルを差し出すことなら、する人も少なからずいるでしょう。

しかし、簡単ではない親切はなかなかできるものではありません。

 

 そんな温かな心に触れた私は、その瞬間に大きな変化を経験しました。

もっと分かり易い話をしましょうか。

 

 ご近所さんが旅行に行った際に、「いつもお世話になってるから」とお土産を買ってきてくれたとしましょう。あなたが旅行に行った時、たくさんの貰い物があったとき、ご近所さんがちょっと困っていた時、あなたはお返しをしようと思うようになります。その事がきっかけで別のご近所さんにも、おすそ分けをしよう、お土産を買っていこうなんて思うようになることもあるでしょう。

同じ話なんです。

あなたに何か良い事をしてくれた人がいて、その人はもちろん、その時の嬉しさを他にもしてあげたいと思うようになる。

 

 この事は、別に宗教的な善行でも修行でもなんでもないんです。

人が生きるという事は、常に縁の中にいるという事です。

その縁にも様々な縁がありますが、そんな縁の中でも身近な所に、ほんの少し温もりを添えてみたといったところでしょうか。

その温もりを添えられたご縁は、先の例のように確かに記憶や潜在意識に残り、ほんの少しかもしれませんが、人を優しくします。そうして、温かなリレーが行われます。

 

 諸行無常な世界ですから、即座に必ず温もりがリレーされるとか、即座に必ず温もりが伝わるなんて言うつもりはありません。しかし、放たれた温もりのご縁が、なかった事になることは絶対にありません。

 

 これもまた何年も前の話ですが、とある砂浜でカップルの乗った一台の車が動けなくなっていました。その場にいた地元の人たちが、応援を呼びに走ったことで、たまたま近くの道を走っていた私もその場に駆けつけることになりました。

砂浜にはまってしまった車は、タイヤが空転するばかり。

とはいえ重い車に、足場は不安定な砂ですから、大人の男数人がかりでも持ち上げる事ができません。

そこにいた方が板切れを探し回り見つけてきました。

それを車の下に置き、ジャッキをあて、車を持ち上げ、タイヤのしたに敷いたのは、地元の人が家まで取りに帰って持ってきた新品の毛布でした。

そうして、皆が汗だくになって押し、やっと車は砂浜から脱出できました。

一連の中で、車の助手席には若い女性が、一度も降りることなく、むすっとした顔で乗っており、男性も男性で脱出した後、お礼どころか、会釈一つする事もなく、そのまま走り去って行きました。

 簡単に言ってしまえば「若い奴が、考えもなしに車で砂浜に入って周囲に散々迷惑をかけて助けてもらったのに、お礼も言わずに去っていった。礼儀も知らない奴らだ。」となるのでしょうが、それは目先の損得しか見ていない場合の話です。カップルには必ず親切にしてもらった記憶が残ります。年月を経て、その時の事が蘇り再びリレーが再開されることもあるでしょう。その時助けに集まった地元の人達もまた、腹立たしさもあったでしょうが、それでも心のどこかで「よかった」と思っているはずです。私自身もまた、そう思っていますから。

また同じ状況があれば、助けにくると思います。

私もまた、その直後に牽引ロープを購入し常備するようになりました。

地元の方のお子さんだと思いますが、近くで見ていた子供たちにもまた、この件からかけがえのない事を教わったと思います。

 

放たれた温もりのご縁が、なかった事になることは絶対にありません。

 

世の中どうにもならない縁ばかりですが、身近な縁の中には、こうしてほんの少しだけ育む事ができるご縁もあるのです。真理から見れば些細すぎるほどの事かもしれませんが、そんなご縁を大切に日暮しをさせて頂ける事ってすばらしいなって思います。