はいっ坊主

坊主が気まぐれに日々のご縁をしるします

怒らない人は無し

「お坊さんあるある」とでも申しましょうか。

子供の頃から良く聞かれる事に

「お坊さんって怒らないの?」

というものがあります。

場合によっては「お坊さんが怒ったらいかん」なんてものも。

 

さて、皆さんはどのように考えられますか?

 

 多くの場合、世の中の皆さんは何か大きな勘違いをなさっているようです。

まず、お坊さんと一口に言っても様々な宗派のお坊さんがおります。

厳しい修行をされる宗派もあれば、修行という概念がない宗派もあります。

お坊さんも人間ですから、赤ちゃんの時も、子供の時も当然ありました。とすれば、躾のされ方や育ってきた境遇も様々です。

つまり、一口にお坊さんといっても、それぞれの事情で差があって当然、無いほうがおかしいのです。

 

 苦行を経て仏となった釈尊のイメージを、そのまま全てのお坊さんのあるべき当然の姿だと考えている方が非常に多いようですが、そうではありません。

そうなれたらそれは、お坊さんではなく「仏様」と言います。

ですからお坊さんにも当然喜怒哀楽はありますし、時に激しく怒り狂う事もあります。

それを見て、また勝手な思い込みから「修行不足」というのもまた、お門違いというものです。

立場上の我慢や感情のコントロールの仕方を少しは知っているという部分から、平均して考えると一般の方よりは沸点が高めの人が多いかもしれませんが、所詮はその程度の違いしかありません。

条件が整えば、怒ります。

私自身も割と温和と言われる方ですが、心の中では結構怒ってばかりいますし、時にそれを顕わにする事もあります。

 

 歎異抄の中に、このような話があります。

親鸞聖人が、唯円に対して、「千人殺して来たら往生間違いないぞ」と伝えます。

それを聞いた唯円は、「いくら親鸞聖人の言葉でも、ただの一人さえ殺せない」と答えます。

その理由として、唯円が人を一人も殺せないのは「宿業」が備わっていないからだと教えています。

宿業というのは、分かり易くいえば「縁や条件」と捉えると良いでしょう。

怪我をさせる気なんてなくても、ふざけていて怪我をさせてしまった事があるという人も多いでしょう。中には「ちょっと痛い目みたほうがいいんだ」なんて考えてわざと怪我させたり、不利益を与えるような事をした事がある人も多いでしょう。

それらと何も違いはしないのです。

人を殺してやろうと思って車を運転している人は殆どいません。

しかし、交通事故による死者は後を絶ちません。

人を殺してやろうと思って仕事をしている人は殆どいません。

しかし、自社を守ろうと努めた結果取引先が苦境に立たされて自殺者を出してしまうという事もあります。

 

 このように人の命でさえ、縁や条件が整ってしまえば、直接的でも間接的でも殺めてしまうことがあるのが私たち悪人である人間です。

そんな人間が、それよりももっと簡単でお手軽な「怒り」を引き出す縁や条件に触れるのは、どんなにたやすいことでしょう。

 また人を殺めずに比較的平穏な生活を送っていられるのは、そういう良い方に働く宿業があるからです。

ついつい忘れてしまう私たちですが、こういった機会にその事を考え、そんなご縁に感謝して、日暮らしをさせて頂きたいものです。

 

 少しだけ話のついでに付け加えさせて頂きます。

インターネット上では、匿名性があり、殆どの場合は互いの顔を見ません。

だからこそついつい忘れてしまっている人が多いようですが、インターネット上の様々なコンテンツを作り上げているのは、一人一人の人間です。

様々なやり取りをする向こう側にいるのは、間違いなく私たち一人一人の人間です。

より良いご縁を育み、お互いに気持ちよく楽しむためにも、その事を忘れずに接したいものです。

楽しむ権利を持つのは、自分も他人も同じです。

権利があれば、義務もあります。

義務を怠った人は、インターネット上で楽しむ権利がないのですよ。

明けましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。

昨年思い立って始めたばかりのブログ故、まだまだ記事数は少ないですが、今年も時間を見つけては書いていきたいと思いますので、気になられた方がおられましたら、しばしお付き合い頂けると幸いです。

 

 新年ということで、新年にまつわるお寺の思い出話をさせていただきます。

イメージとして「お坊さんは盆暮れ正月は忙しい」なんて思っていらっしゃる方も多いと思いますが、それは正しい認識で間違いありません。

正月には、ご門徒さんや近所の方々が、自坊へとやってきます。

私が中学生ぐらいの頃だったでしょうか。

冬休みにはいる前に、同級生たちが

「初詣、一緒に行かないか?」

といった話をしておりました。

当然といっては当然ですが、いわゆる初詣に人でにぎわう神社に行くという経験は一度もありませんでしたから、その話に加わって聞いておりますと、お祭りのようにお店のテントが立ち並び、大層楽しいという話をしているではありませんか。

思い返せば、幼い頃に

「うちは初詣って行かないの?」

なんて母親に聞いたこともありました。

「お御堂!」

と本堂を指差されましたが・・・。

そんな事が幾度か重なりまして、「初詣に行ってみたい」という欲求は募るばかりです。

そこで、学生時代に一度だけ、「世間の正月を経験しておく」という大義名分を掲げまして友人たちと夜中に初詣に行ってみました。

話に聞いていたとおり、深夜にも関わらずお祭りのような賑わいに出店の数々。

正直に申しまして、楽しませて頂きました。

しかし、それが後にも先にも、恐らく生涯に一度きりの体験でしょう。

お寺は、お迎えする側ですからね。

先のクリスマスの話と同様、お寺にいると、世間一般とは少し事情が違うお正月の思い出をご紹介させていただきました。

正月のピークも過ぎて、少し落ち着いたところで、ふと思い出しましたので、ご挨拶のついでに記載させて頂きました。

 

 今年もまた、皆様と良いご縁が育める事を願いまして、新年のご挨拶に変えさせて頂きます。

うちのクリスマス

 今年もクリスマスが過ぎていよいよ暮れも本番です。

クリスマスといえば、イエス・キリストの誕生日ということなので、仏教であるお寺には基本的に無関係です。

我が宗派は特にその色が強いですが、単純な聖人の誕生日を祝うというだけでなく、近年ではイベントとして捉えている人の方が多いのではないでしょうか?

と言いますのも、クリスマスが近づくと、お店というお店はクリスマス一色になり、プレゼントを見越した販売や広告が多くなります。

場所によってはイルミネーションやライトアップで飾られた街が目を楽しませ、洋菓子店は予約で大忙し。

ここまで大々的にクリスマスを迎えておきながら、教会に行く人はその内のどのぐらいいるのでしょう?

キリストに祈りを捧げようという人はどのぐらいいるのでしょう?

そもそもキリスト教徒の方はどのぐらいいるのでしょう?

 

 そういう目線で見渡しますと、良くも悪くも日本らしいなと感じてしまうのでは私だけではないと思いますが、いかがでしょうか?

聞いた話ですが、お寺が保育園や幼稚園を経営しているようなところでは、仏教なので関係ない・・・とは目を輝かせる子供の手前なかなかできませんので、あれこれと苦労して苦肉の策を設けているところもあるのだとか。

 

 私の子供の頃はどうだったのかと申しますと、割と早い段階で

「うちはお寺やからサンタさん関係ないよ!」

と言われておりました(笑)

それでも、周囲の子供たちの手前、何もしないわけにもいかないということで、ケーキぐらいは用意してありました。

クリスマスプレゼントも同じく、お菓子程度にされてしまっており、学校などで

「クリスマスなにもらった?」

「○○もらった!」

なんて会話が聞こえてくると、羨ましさを感じたものです。

シーズンが近づくと新聞に入るおもちゃ屋さんの広告を広げて、そこに描かれた夢のような世界に目を釘付けにされ、テレビのCMでは格好いいラジコンが走という時間に物欲が刺激されないわけがなく、期待だけはするものの、最後には諦めるという、ちょっと複雑な心境の子供時代を思い出します。

 

 私個人としては、イベントとして楽しむのは特に問題ないと思いますが、周囲のお寺の方々の話を聞いておりますと、クリスマスの捉え方にも色々とあるようです。

毎年クリスマスが近づきますと、お寺のクリスマス事情が気になる方から

「お寺ってクリスマスどうしてるの?」

「お寺の子ってプレゼントとかあるの?」

なんて聞かれますので、この場を借りて私のクリスマスについて触れてみました。

 

 今年も残すところあと僅か、風邪など引いて病床での年末年始とならないように、くれぐれもご注意いただきたいと思います。

生老病死と申しましても、避けられないものばかりではなく、注意することで防ぐ事ができる病があるのも事実ですからね。

あなたの好きなものは?

「美味しいものには目がないんです」

と言いながら、わざわざ美味しいものや店を探したりはしない。

中には

「美味しい店を探して美味しいものに出会うのが楽しみです」

と口に言いながら、外食するときには、ついつい有名店やチェーン店などに入ってしまう。

なんて人も。

 

身に覚えがある人も結構いるのではないでしょうか。

結果、時には美味しい食材の仕入れが取りやめになったり

美味しい店が、店をたたんでしまうことになったり。

 

「本当に美味しいなら、そんなこと関係ない」

「それは本当に美味しくなかったからだ」

 

なんて言い聞かせて誤魔化していませんか?

「本当に美味しいなら、自分一人が行かなくても(買わなくても)、他人が判断して流行らせてくれるから、そうしたら行けば(買えば)いい」

それは言い換えてしまえばこういうことです。

 

グルメの話を例に出しましたが、他でも一緒です。

ファッションだったり、日用品だったり、家電だったり、音楽だったり、イラストだったり、ゲームだったり・・・。

 

私たち人間は、本質的に怠惰で我侭なものです。

願望を声高らかに宣伝して歩いても、身近に妥当なものがあれば、ついついそれで誤魔化してしまうものです。

時には知名度のある評価があれば、それが正解なんだと思い込んでしまいます。

全てにおいてとは申しませんが、ついついそうしてしまっている事は、人間誰しもがあるものです。

 

「この人はとても良い人だから、結婚しなさい」

なんて言われても、絶対に嫌だと言いますが

「この冬は○○ファッションが人気!」

なんて雑誌に書いてあると、自分の趣味にぴったりでなくても飛びついていませんか?

 

では、ここで問うてみましょう。

 

あなたの好きは、あなた自身が判断していますか?

温かなご縁のおはなし

 あれから何年になるでしょうか。

年始に、ご挨拶に回っておりました。

両手には荷物がいっぱいという状況の中、突如みぞれが降り始めました。

みぞれはみるみるうちに本格的な雪となり、両手が塞がっている私は、傘(そもそも持って出ておりませんでしたが)をさすどころか、頭に積もった雪を払うこともままならないまま、時間的な都合もありそのままご挨拶を続けておりました。

そんな中お邪魔した家でのこと、私の状態を見た方が、タオルを用意してくれた上に、両手の塞がっている私の頭から服まで一所懸命に拭いてくれるのです。

荷物を置けば自分で拭ける状況ですし、私自身もういい大人であるにも関わらず、まるでずぶぬれの子供を拭くかのように真剣にです。

親しい方の家やご門徒さんの家でしたら、まだ話もわかりますが、そうではない家での事でした。

身内であっても「お父さんのパンツと一緒に洗わないで」なんて家庭もあるという悲しい話も耳にするご時世に、話もしたことのない、見知らぬ中年おじさん(まだ認めていませんが)を相手に、なかなかできることではないです。

 

 私ならどうしただろう?

例えば、面識のない宅配業者の中年男性がずぶぬれで荷物を持ってきたとしたら。

何もしないか、せいぜいタオルを手渡すぐらいでしょう。

拭いてあげるところまでは絶対にしない自信があります。

お読みになっているみなさんはどうですか?

見知らぬ中年男性がずぶ濡れで訪ねて来たら、タオルを用意しますか?拭いてあげますか?

 

 その時の私は、恥ずかしいやら申し訳ないやら、しかし同時に、本当に温かい気持ちがどんどん満ちていくのを感じました。

その心が本当に嬉しかった!

その時の事を、私は生涯忘れることはないでしょう。

あの時のタオルほど温かいタオルは、これまで経験した事ありませんでした。

親しい間柄で、拭いてもらった事は数知れずあります。

それは、私の中で「してもらえて当たり前」と思っていたのでしょうし、実際に例えば親が濡れた子供を拭くというのは、多くの場合むしろ当たり前の事でもあります。

 

 今現在、当時の私と同じような状況があれば、私は迷わずタオルを用意して拭きます。

「困っている人に親切にしましょう」

なんて小学校で習った記憶がありますが、簡単な親切ならする人も多いものです。

先の例でいえば「これで拭いてください」とタオルを差し出すことなら、する人も少なからずいるでしょう。

しかし、簡単ではない親切はなかなかできるものではありません。

 

 そんな温かな心に触れた私は、その瞬間に大きな変化を経験しました。

もっと分かり易い話をしましょうか。

 

 ご近所さんが旅行に行った際に、「いつもお世話になってるから」とお土産を買ってきてくれたとしましょう。あなたが旅行に行った時、たくさんの貰い物があったとき、ご近所さんがちょっと困っていた時、あなたはお返しをしようと思うようになります。その事がきっかけで別のご近所さんにも、おすそ分けをしよう、お土産を買っていこうなんて思うようになることもあるでしょう。

同じ話なんです。

あなたに何か良い事をしてくれた人がいて、その人はもちろん、その時の嬉しさを他にもしてあげたいと思うようになる。

 

 この事は、別に宗教的な善行でも修行でもなんでもないんです。

人が生きるという事は、常に縁の中にいるという事です。

その縁にも様々な縁がありますが、そんな縁の中でも身近な所に、ほんの少し温もりを添えてみたといったところでしょうか。

その温もりを添えられたご縁は、先の例のように確かに記憶や潜在意識に残り、ほんの少しかもしれませんが、人を優しくします。そうして、温かなリレーが行われます。

 

 諸行無常な世界ですから、即座に必ず温もりがリレーされるとか、即座に必ず温もりが伝わるなんて言うつもりはありません。しかし、放たれた温もりのご縁が、なかった事になることは絶対にありません。

 

 これもまた何年も前の話ですが、とある砂浜でカップルの乗った一台の車が動けなくなっていました。その場にいた地元の人たちが、応援を呼びに走ったことで、たまたま近くの道を走っていた私もその場に駆けつけることになりました。

砂浜にはまってしまった車は、タイヤが空転するばかり。

とはいえ重い車に、足場は不安定な砂ですから、大人の男数人がかりでも持ち上げる事ができません。

そこにいた方が板切れを探し回り見つけてきました。

それを車の下に置き、ジャッキをあて、車を持ち上げ、タイヤのしたに敷いたのは、地元の人が家まで取りに帰って持ってきた新品の毛布でした。

そうして、皆が汗だくになって押し、やっと車は砂浜から脱出できました。

一連の中で、車の助手席には若い女性が、一度も降りることなく、むすっとした顔で乗っており、男性も男性で脱出した後、お礼どころか、会釈一つする事もなく、そのまま走り去って行きました。

 簡単に言ってしまえば「若い奴が、考えもなしに車で砂浜に入って周囲に散々迷惑をかけて助けてもらったのに、お礼も言わずに去っていった。礼儀も知らない奴らだ。」となるのでしょうが、それは目先の損得しか見ていない場合の話です。カップルには必ず親切にしてもらった記憶が残ります。年月を経て、その時の事が蘇り再びリレーが再開されることもあるでしょう。その時助けに集まった地元の人達もまた、腹立たしさもあったでしょうが、それでも心のどこかで「よかった」と思っているはずです。私自身もまた、そう思っていますから。

また同じ状況があれば、助けにくると思います。

私もまた、その直後に牽引ロープを購入し常備するようになりました。

地元の方のお子さんだと思いますが、近くで見ていた子供たちにもまた、この件からかけがえのない事を教わったと思います。

 

放たれた温もりのご縁が、なかった事になることは絶対にありません。

 

世の中どうにもならない縁ばかりですが、身近な縁の中には、こうしてほんの少しだけ育む事ができるご縁もあるのです。真理から見れば些細すぎるほどの事かもしれませんが、そんなご縁を大切に日暮しをさせて頂ける事ってすばらしいなって思います。

伝える事は難しい

 私が得度して、数年が経った頃に先輩のお坊さんに言われた事があります。

「どんなご法話を聞いても、ご講師の言った事が全て理解できるか?」

ご聴聞させて頂いていた折、言っている事は基本的に分かっていて聞いています。しかし全てを完璧に理解できるご法話は、実はさほど多くありません。それを常々感じていました。

内容が難しい、要点が分かりにくい、用語が分からない、自分の理解と食い違いがある、内容の理解や用語の誤り等に「アレ?」と思っている間に進んでしまい戸惑う等々、幼い頃から、仏教に、しいては宗派の教義に触れていてもそのような事はよく有ります。

「だいたいは分かるけれど、分からない事もある」

即答でした。

先輩のお坊さんは

「そうだろう。私らのように接しているものでも、分からない事も多い。ましてや一般の人はもっと分からない。」

「確かに!」

納得せざるを得ない瞬間でした。

そして、そこに私がご法話をする際に最も心がけている要ができました。

 

『分からなければ、何も聞いていないのも同じである』

 

心がけてはいても、悔しいかな、満足できる法話ができた事はまだ、ただの一度もありません。

知識のある人に説明するのは、比較的容易なのですが、知識のない方に説明するのは非常に難しいものです。生まれて一度もライオンを見た事がない人に、ライオンの説明をすることを考えてみて下さい。

ネコ科の肉食動物で・・・云々

そんな"授業"を聞いても退屈なだけで、上っ面の知識だけしかありません。

みなさんならどう説明しますか?

今日、仏教とは全く無関係のことではありましたが、教えるべく説明をしていた際に、この先輩お坊さんとのやり取りを思い出しました。

何事においても、難しさを知る事が本格的な歩みの第一歩です。

百里の道は九十九里を以って半ばとす

別の先輩のお坊さんに言われた言葉が、同時に脳裏に蘇るそんなご縁の日でした。

四苦八苦

 四苦八苦という言葉を耳にした事がある方は多いと思います。

有名な話ですから、これが仏教用語であることを知っているという方も多いと思います。では、四苦八苦って何か説明して下さいというと、それ以上は知らないという方が多いようです。

 この四苦八苦という言葉は、仏教を知るうえでも、仏教を学ぶ上でも、そしてどの宗派においても、必ず触れずにはおけない重要なキーワードの一つです。そこで、今回の仏教のお話は「四苦八苦」について解説したいと思います。

 

 四苦八苦は、四苦という根本的な4つの苦と、それに付随する4つの苦

「4」つの「苦」と、付随する4つの苦の合計「8」つの「苦」、で四苦八苦と言うわけです。

 

 まずは、根本となる4つの苦について見ていきたいと思います。

生・・・生まれ生きる苦

老・・・老いる苦

病・・・病気の苦

死・・・死の苦

これをまとめて四苦、生老病死(しょう・ろう・びょう・し)と言います。

 人が生まれると、その瞬間から様々な因縁にとらわれます。お家の騒動、意見の対立、騙されたり、裏切られたり、見たくないものを見たり・・・些細なものから、深刻なものまで様々で挙げればキリがありません。思い通りになる人生なら、面白楽しく生きることもできるでしょうが、思い通りにならないのが人生です。また、その後に続く、老病死もまた、生まれなければ起こりえない事です。釈尊は「生」そのものを苦と考えられたのです。

 そして、人は歳を重ねることを避けられません。ずっと若いまま居たいと願ってもかなうはずもなく、歳をとるたびに体は衰えていきます。体の衰えは様々な病気や怪我をしやすくなりますし、大変な苦痛を伴うこともあるでしょう。

 風邪を引くだけで、人は「しんどいしんどい」といいます。しかし世の中苦しい病気はそれだけではありませんし風邪の比ではないものもたくさんあります。時には生まれながらに病気を背負っている人もいます。いつどんな病気になるのかもわかりませんし、多少の予防ぐらいしか対策もできません。病気になることで周囲にも大変な思いをさせてしまいます。単純に身体機能だけでなく、心の病気もまた深刻です。昨今も鬱病関連の話題、自殺者の数といったニュースが飛び交っています。

 人が人生の最後に必ず通る道が死です。どんな名医も避けられません。いつどのような形で死ぬのかは殆どの場合わかりません。もしかしたら、今まさにこの記事を読んでいる間に死ぬことだってありえるのです。歳を召した方が、「私はもういつ死んでもおかしくない」と言いながら、いざちょっと具合が悪くなると「病院に連れていってくれ」と言ったり、人間は生に執着を持っています。死という得体の知れないものが怖いのです。死後が怖いのです。古くインドでは輪廻が怖いのです。

 

愛別離苦・・・愛するものと離れる苦

怨憎会苦・・・会いたくないものに会う苦

求不得苦・・・求めるものが得られない苦

五蘊盛苦(五陰盛苦)・・・五蘊にとらわれる苦

これが、付随する4つの苦です。

五蘊というのは、色・受・想・行・識の事で、色は肉体や物質、受は感受作用、想は表象作用、行は意志作用、識は認識作用となり人の肉体や精神を5つに分類したものです。つまり、五蘊盛苦は肉体や精神を伴って人間が生きているだけで、5つに執着してしまい苦しみが生じるということです。

 人が生きていると、必ず愛するものが出てきます。家族であったり、恋人であったり、友達であったり。また人に限らない場合もあるでしょう。形見の物であったり、愛する人からの贈り物であったり。しかし、それらはいつかは離れることを避けられません。喧嘩などが原因での離別もあるでしょうし、死別もあるでしょう。紛失もあれば、愛が続かないこともあるでしょう。いずれにしても、死ぬときには・・・。

 どうしてもうまが合わないという事は誰にでもあるものです。それならまだしも、自分を貶めたものとの再会を避けられない事もあるでしょう。まだ見ぬ人であっても、恨みを持つ事になるような人とは会いたくないものです。しかし、人が社会にいる以上、憎しみの対象となるものにも出会ってしまうことは避けられません。

 欲しいと思ってしまった人間は、穏やかには過ごせません。簡単に手に入るものもあるでしょうが、求めても得られないものもまたたくさんあります。結果他人を羨み嫉妬したり、社会に対して愚痴をこぼしたり、他人を犠牲にするようなケースもあります。大好きなあの人が結婚し他人のもの。同期は次々出世して。そんな身の回りによくあるものだけでなく、老いる事のない体を求めたり、永遠の命を求めたり、古代インドでは、上のカースト階級を求めたりということもあったでしょう。

 人が綺麗な宝石を見たとき、その輝きに魅了され、身につけた自分をイメージしたりして、手に入れたいと思うようになるのです。

人が自分より恵まれた人を見たら・・・。高いところから下を見たら・・・。事故を見たら・・・。死に接したら・・・。このように、肉体や精神に執着してとらわれてしまうのが人間です。物欲、色欲はもちろん、美味しそうな食べ物を前にしたときもそうです。五蘊に執着することから、様々な欲や感情が出てきて苦しい思いをします。

 

 四苦八苦という言葉の内容について、なんとなくお分かりいただけたでしょうか?

全体に渡って「苦」と書いていますが、これは「思うようにならない」だから苦しみにつながる、という風に受け取ると良いでしょう。苦しいなと思ったときに、この四苦八苦の話を思い出して照らし合わせてみますと、必ず当てはまるものがあります。

ついでに冷静に一呼吸おくこともできますからね。

 「昨日あのあとトラブルがあって四苦八苦しちゃったよ」

なんて気軽な使われ方をしていますが、あながち間違えてはいない部分もありますが、本来は、人の苦の根底にあるものの事なのです。