はいっ坊主

坊主が気まぐれに日々のご縁をしるします

名ばかりの現実

 これは、とある人たちの会話です。

 

A氏「俺、”あああ”ってバンドの大ファンなんだ。」

B氏「俺の友達のC君って子も昔から大ファンらしいよ。」

A氏「本当?C君と話してみたいわぁ」

B氏「呼んでみようか?」

C氏「どもどもはじめまして」

A氏「はじめまして、”あああ”の大ファンって聞いたんで」

C氏「かれこれ10年ぐらいずっと大ファンだよ」

A氏「ちなみにどの曲が好きなの?」

C氏「”いいい”とか”ううう”とか、あと”えええ”もいいし・・・」

A氏「それ知らない曲だけど・・・」

C氏「え?A君はどの曲が好きなの?」

A氏「”有名所”と”高知名度”が好き」

C氏「他には?」

A氏「他の曲知らない」

C氏「・・・・・・・・イラッ」

 

実際、A氏のような人はかなり多いですよね。

そして、C氏のような人もまた多いですよね。

 

 CMやアニメやドラマの主題歌になったもの等、有名になったものだけ聞いて

全体が好きだというA氏。

対して、ファンたるものは最低でもマイナーな楽曲まで全て網羅してこそファンを名乗る資格があるのだというC氏。

 

またある日のこと。

 

A氏「昨日のサッカーみた?」

C氏「見た見た!負けちゃったけど面白かったね」

A氏「後半開始直後の”アア選手”のスルーパスすごかったよな」

C氏「・・・うん、すごかったね」

A氏「でも前半の選手交代早すぎだったのが負けるきっかけでしょ」

C氏「・・・お、おう」

A氏「C君はそう思わなかった?」

C氏「・・・実はニュースのダイジェストしか見れてないんだよね」

A氏「・・・・・イラッ」

 

サッカーが大好きで以前から応援しているA氏。

世間がサッカーの話題で盛り上がっているので軽く乗っかり、話にだけついていけるようにしたC氏。

 

時にこうして立場が入れ替わります。

あなたは大丈夫ですか?

 

1/3は鳥にやり、もう1/3は虫にやる

 今回の記事のタイトルにした言葉は、連れ合いの母、私の義母から聞かせて頂いた言葉です。

義母によれば、「この辺では昔の人はそういってた」との事で、畑で農作物を作ってもそれを全て人間が食べるわけではなく、

「1/3は鳥にやる。もう1/3は虫にやる。残りの1/3を人が食べる」

と聞かされたのだそうだ。

 

 畑をしない人には、テレビ等で芸能人の人達が畑に取り組む映像を見て、なんだか楽しそうといった思いを持ったりする事もあるでしょうが、実際に畑を人の手で耕し、土を作り、畝を作り、種や苗を植えて、毎日水を遣り、抜いても抜いてもいつのまにか生えてくる雑草を相手にするのはかなりの重労働です。うちでも小さいながらも畑があり、毎年耕しては野菜を育てております。ですから、重労働であることは知っておりますが、「知っているだけに尚更」、この言葉が重く響きました。

 

 この言葉を味わいますと、そこには自然の摂理、循環を理解していたかのような印象を受けます。鳥が食べる事によって、土壌への貢献、物によっては種子の運搬が行われます。虫が食べる事によって、土壌を豊かにしたり、病気の葉を食べてもらったり受粉への貢献が行われます。

 そして、鳥や虫は「それが食べ物だから食べる」と言う本能に素直に生きているにすぎません。ですから、野菜や果物だけではなく、森の木々や道端の植物も虫に食べられますし、人間が食べないような山の実を食べる鳥もおります。

ただ人間だけが「ここは私の土地で、私が作った野菜や果物は私のもの。収穫が減るのも気に食わなければ、自分にとって利のない鳥や虫には一粒たりともやりたくないし、食べる時に虫食い部分を取り除く手間もかけたくない」という欲な考えを持つのです。

 

 実際には、鳥や虫がいる恩恵を受けなければ作物は作れないのです。しかし小学校の理科で私達はそれを「常識」レベルの知識として学んでいるにも関わらずただの「害」という目で見ます。植物が鳥や昆虫をさそい、おしべに触れて付着した花粉によって受粉して実になる。その恩恵を受けながら、「鳥や虫への悪口を言い」、「追い払う研究をし」、「薬等を使い殺す」のです。

現在の人の多くはあまりに恩知らずで強欲な行為をしながら、感謝どころか、「畑に害なす鳥や虫め!」と怒りの感情を持って、悪い事をしているとは思いません。

 

 しかし、昔の人は恩恵を知り「感謝」を持って「共存」を選択していたのですね。

果物の木は、収穫の際にいくつかの実を残しておく「木守り」というものがあります。

その理由の中には鳥にやり種を運んでもらう、そのまま熟させ地面に落ち、種子と養分を土へやるといったものも含まれています。今「木守り」という言葉を知っている人はどのぐらいいるのでしょうね。

 

 うちの畑では、去年は作物という作物がほぼ全て鳥や動物により壊滅しました。今年もかなりやられました。これらの言葉を知り、このような記事を書いている私ですが、「怒り」の感情はやはり生じてしまうのです。先に「重労働なのを知っているからこそ尚更に響いた」という事を書いておりますが、人間は苦労して手に入れようとしたものほど「自分のもの」という思いが強まるものです。

先の言葉を語った昔の人は、恐らく私よりも重労働であったことでしょう。(耕運機もなければ、農機具も今ほど多様ではなかったでしょうからね)それにも関わらず、先の言葉を言うからには、自然に対してそれだけ心底から感謝を持っていなければありえない事だと思うのです。

 

 現在の私達が失ったものは実はかなり大きいのかもしれませんね。

言葉の裏側にあるもの

「学校は間違える所だ」

かつて私が在籍していた学校の教師たちの中で流行っており、複数の恩師達に言われた言葉です。

当時はすばらしい言葉だと素直に受け取りましたが、今改めて考えてみますと、限定的にもプレッシャーをかけているようにも受け取れます。

と、申しますのも、例えばシンプルに

学校以外では間違えてはいけないのか?

ということですね。

間違えないに越したことは無いでしょうが、人間である以上、必ず何かしらの間違いをしてしまう事は避けられません。料理の味付け、仕事のミス、ついつい感情的になってしまう事もあれば、気をつけていても事故を起こしてしまう事だってあります。

 

 実際には、学ぶ以上最初は戸惑うこともあれば、間違えることも多いだろうけど、間違えても恥じる必要はないから、どんどん間違えなさい。そして少しずつ間違いを正していって、成長して下さい。学校はそれを全力でサポートしますよ。

という意味であって、決して先述したような他意のある言葉ではないと理解しております。

 

 このように言葉には受け取り方によって誤解をしてしまいかねないものが存在します。私のようなへそ曲がりな理屈屋は特に注意が必要ですね。

例えば、「井の中の蛙、大海を知らず」なんて諺があります。

そしてその諺に続きを作ったものがあります。

「されど空の高さ(青さ)を知る」と言うものですね。

素直に受け取れば、海の存在は知らなくても、外の世界への憧れは誰よりも強く

それゆえに空を仰ぎ見る機会も多く、そのすばらしさを誰よりも知っているんだという意味なのはすぐに理解できます。

しかし、私はそういう時に余計な事も考えてしまうわけです。

井戸の中の蛙は、限られた資源しかない場で短い命を生きる事になる。

一方井戸の外の世界には、実際に井戸の中の蛙が憧れて止まなかった空を飛ぶ道具だって存在する。果たして実際に空の事を良く知っているのはどちらなのか?実は空は青くない事を知っているのはどちらか?といった具合ですね。勿論口には出しませんよ?そのぐらいの気遣いは持ち合わせております。

それでも「わー性格悪い!」

なんて印象を受けられた方も居られるかもしれませんが、実はこれは大事な事でもあるのです。

そして、皆さんもその事をよくご存知のはずなのです。

「京都のお茶漬け」なんて話は聞いた事がある方も多いでしょう。

京都でお茶漬け(ぶぶ漬け)を勧められたら「お帰りください」の意味なのだというものです。実際にはそんな事まずないわと京都の方に言われましたが(笑)

このように「言葉の裏側に込められた本当の意味」というものを理解する為には、言葉を素直に受け取る事は勿論ですが、それ以外の意味にも思いを馳せる必要があるわけです。

政治の世界なんかは、非常に多いですね。言葉からの真意の探り合いは日常茶飯事です。

KYなんて言葉も、大分略語として認知度が上がってきましたが、これもまた同じですね。状況や言葉から真意を読み解いて、それに沿った行動をしないと「KY」になるわけです。

昨今報告の多い様々な詐欺についても、素直に言葉の表面を見るのではなく、矛盾点等をしっかりと見定める事で避けられるものも少なくありません。

かつて私の元へかかってきた詐欺の電話もそうでした。

先物取引関係の詐欺でしたが、早口で計算を並べられて、「どうです?すごいでしょ?」なんて感じでしたが、こちらが理数系である事を見抜けなかったのが最大の敗因。計算式の矛盾を問いただしたところ、ブツンと電話を切られたなんて経験もございます。

 

 余談ですが、この表立って書かれた事(顕)とその真意(隠)を読むと言う事は、日常の中だけではなく、仏教の世界でも当たり前に行われており、仏教を学ぶ際には避けられない必須な事でもあります。

一般の方に、ご法話等を通じてお話させていただく場合には、そんなややこしい話はせずに、導かれた答えの部分を噛み砕いてお話される事がほとんどですので、

「え???そうなの???お経に書いてあるんじゃないの???」

なんて思われる方も多い事と思います。

例えば浄土真宗の経典である「浄土三部経」にも、無量寿経以外は「顕」と「隠」があります。現代語訳された書籍等もありますから、読まれたことがあるという方もおられるかもしれませんが、素直に読んだ際に、観無量寿経阿弥陀経浄土真宗の教義とは異なるズレや矛盾を感じませんでしたか?

親鸞聖人は、観無量寿経を「第十九願(自力諸行)」、阿弥陀経を「第二十願(自力念仏)」、無量寿経を「第十八願(他力念仏)」と位置付け、衆生を第十八願へと誘引する為に、観無量寿経阿弥陀経が説かれたのだとされました。

つまり、真意は無量寿経、第十八願へと導く為の手段であって、顕にはどちらの経も自力が書かれているけれども、隠にはどちらの経も方便が書かれているだけであるとされたのです。これを三経一致門と言いますが、ややこしいでしょう?

実際に教義を学ぶ際には、七高僧の釈功、報化ニ土・・・と順を追って導かれ、三願、三経、三門、三蔵、三機、三往生とまとめられ正因三願となるものですから実はこれでも9割9分以上端折って書いたものです。

詳しく知りたい方は、

浄土三部経と七祖の教え(勧学寮)」

親鸞聖人の教え(勧学寮)」

という書籍がございますので、そちらをお読み下さい。

amazonでの通販もできますし、本願寺内のブックセンターでも購入できます。

または、聖典(注釈版)をお持ちの方は、三経の頭にある解説部分にこの顕彰隠密、三経一致門について書かれております。

このブログで取り扱うには専門的すぎると判断しており、今後も法話として軽く触れることはあっても、詳しい解説まではする予定はありませんので、気になる方はご参照下さいませ。

 

 さて、言葉の表裏という二重構造を持つものが決して珍しいものではなく、日常にも溢れていると言う事が見えてきたところで、ひとつ「叱」という字を紹介させていただこうと思います。

 この「叱」という漢字ですが、これもまた表裏の意味をもった漢字のように思います。

よく「怒る」と「叱る」は違うのだと言われます。

そこには私も異論はありません。

しかし、「叱る」の意味を表面でしか受け取っておられない方が多いように思います。

「叱る」は怒らずに相手に分からせる事と考えている方が多いのではないでしょうか?

 

「叱」という字は、口に「切る」と同じ「七」みたいな字が組み合わさっています。

この「七」みたいな字は、刃物で十文字に切った様子を表しています。

なので「切る」という字は「刀で切った」という字の成り立ちを持っているわけですね。一方の「叱」という字は「口で切る」と書きます。

さて、一体なにを切ったのでしょうか?

先ほどの「表面しか受け取っていない」という部分は、ここに思いを馳せた方が少ないのではないかと申し上げたわけですね。

字の構成を素直に受け取り、口で相手を刃で切るが如く傷つける事が「叱る」であれば、今ごろはきっと違う意味で伝わっているのではないかと思うわけです。

かといって、怒らずに分からせる事という意味にもまた結びつき難いですね。

では何を切ったのか・・・。

私はこれを「悪業」を切ったのではないかと受け取らせて頂いているわけです。

 

歎異抄の中に、「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆえなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆえなり」という一節があります。

この宿善、悪業のことを宿業と言います。

これは以前のブログに登場している、「千人殺してこい→できません」という話で、親鸞聖人がその理由としては「それはな・・・」と語ったものです。

簡単に訳すと、良い心が起こるのは宿善があるからで、悪い心が起こるのも悪業があるからだということです。

つまり、人間の善悪は宿業によるものとなるわけですが・・・。

以前、因果という話にふれておりますが、因果というのは、決して身近なものだけに限られたものではありません。はるか昔の人が落とした小銭が、たまたま現在の草むらで見つかり、拾おうとした人が足を滑らせて怪我をするなんて事もまたありえるように、時代も距離も越えて複雑に結び絡み合ったものが因果です。縦の因果と横の因果なんて言い方をされる方もおられますが、法律のように直接の目立つ因となった者だけが裁かれるといった単純なものではなく、遥かに広く、時間軸上にも長いものですから、少しわかり難いかもしれません。バタフライ効果なんてものがありますが、あれもまた因果を説明したものの一つです。

親鸞聖人は、同じ歎異抄の中で

「卯毛羊毛のさきにゐるちりばかりもつくるつみの宿業にあらずといふことなしとしるべし」

うさぎや羊の毛の先についてる塵ほどの罪も、前世の宿業でないものはないという意味になりますが、前世だ輪廻だという話をしているわけではなく、聖人は「私達凡夫は、縦横の因果の中にあってそれをどうすることもできない身(悪人)である」という事を仰っています。

そのような私達は、些細なきっかけがあれば、簡単に悪事を働いてしまうような存在です。

しかしながら人間は「学ぶ」事を知っています。

知識や経験から判断したり、予測したりする事で、わかり易い因果に関しては察する事ができます。その中で悪い方に作用する因果を見た先生や親や身近な目上の人達は、たまらず手を差し出すでしょう。

その救いの手が「叱」であると受け取らせて頂いているわけです。

ということには、広い意味では悪い因果が働きそうになったときに、脳裏をよぎって止めてくれるような大切な人や親兄弟、恋人の存在もまた「叱り」であると考えます。

 

 「怒る」と「叱る」が違うと一言で申しましても、こういった目線で改めて見ますと、一層違いを感じられます。

仏様のような力のない、凡夫な我が身なれど、それでもささやかながら出来る事、お手伝いさせて頂ける事はあります。叱りが身近な人達による、救済の手であるならば、叱る方もにもまた、そこに「利他」の心があります。

まとめますと、「叱る」とは

「利他の心をもって、ささやかながら救いの手を差し出し、悪業を断つ事」

私の勝手な受け取り方ではありますが、叱るという字が温かく素敵な字に見えてきませんか?

 

ちょっと気になった記事を解説してみようと思います。

昨日、このような記事を発見しました。

【悲報】中国「日本の仏僧っておかしくね?」→ 内容がwwwwwwwwwwwwwwwwwww - エクサワロス | ニュースまとめサイト

exawarosu.net

とりあえず、説明をしてあげたいなと思ったのですが、いかんせん簡単に説明できるものではないので、このブログに書いてしまおうというわけです。

そもそも、チベット問題などなどのある中国の方が言うことではないと思いますが・・・。

 

 まず、話の内容としてのポイントが、肉を食べたり酒を飲んだり結婚したりという点にあるので、ここへ通じるルートの説明からする必要があります。

 

過去の記事でも紹介しておりますが、仏教教団は釈尊の没後、分裂を繰り返します。

その理由の一つに、布施の扱いがあることも記載しましたが、簡単にもう一度記載しておきます。

托鉢をした際などに、食物等を布施されるわけですが、中には余ってしまう調味料なんかもあったわけです。

こういうものを、蓄えてとっておいても良いかどうか?

普通に考えれば、「いいんじゃない?」となりそうですが

備蓄しておくということは「財産」とみなされるわけです。

ここが仏教教団の中で意見が分かれる要因となったのですね。

他にも色々とありますが、とりあえずはこのような問題などを巡って分裂をしていくわけですが、「釈尊が言ってない事はしない派」と「時代や事情に合わせてもいいじゃないか派」との対立と考えてもらうと話は分かりやすいと思います。

 

 仏教には根本理念がありまして、三法印(または四法印)といいます。

そしてこの理念があれば仏教で、なければ仏教ではないと考えて良いという事を以前の記事にも書かせてもらいました。

この根本理念に、先述した備蓄の要素など登場しません。

つまり、根本理念をきちんと押さえつつ、時代じゃ事情に合わせていくという流れはここに源流があると申して良いでしょう。

 

 根本理念を押さえつつというのは、簡単に言えばこういう事です。

北海道から本州へと移動するにあたって「津軽海峡を渡りきる事」が根本理念だとしましょう。

昔のように、小さな船で潮流の早い津軽海峡に漕ぎ出して渡る事が基本だったとしても

技術が発展して、安全で快適なフェリーが出来たならそれに乗って渡っても、根本理念は押さえています。

青函トンネルを抜けても、飛行機やヘリコプターを使っても、「津軽海峡を渡りきる」という根本はきちんと押さえられています。

 仏教の根本理念をきちんと押さえておけば、時代や事情、人に合わせて手段などが変化しても、それは仏教なのだというのはこういう事なのです。

 

 さて、仏教の原点へと戻ってみましょう。

これも以前の記事で紹介しておりますが、釈尊の生涯を見ますと

簡単に言えば「生老病死」の迷い悩みとの戦いでした。

そして、その悩み迷う姿は「人間そのもの」です。

釈尊も人間ですし、仏陀となった後に釈尊に救いを求め集まった人もまた人間そのものです。

釈尊は、その人その人に合わせて、様々な説法を展開します。

釈尊の弟子たちもいれば、一般の方もいたでしょう。

その教えの数は少なくとも8万4千にもなります。

仏教が「八万四千の法門」と呼ばれるのは、後に釈尊の弟子が、私が聞いたと言った教えの数に由来しています。

 

 現在、物的証拠として発見されていませんが、現存する最も古い仏教経典などを紐解きますと、その内容は「自利(自分を救う)」です。

つまり、出家して修行した人のみが救われていくような教えになっています。

勿論、一般の方の布施による善行なんかもあるのですが、まぁ弱いです。

涅槃寂静には程遠いです。

となりますと、出家して修行できない人たちはどうしたら良いのでしょう?

そこで登場するのが「大乗仏教」です。

登場するのが自然と言ってもなんら違和感のないぐらい、当然求められたであろう大乗仏教ですが、その理由の最も特徴的な部分が「利他(みんな救う)」です。

一方、「釈尊の言ってない事はしない派」の流れを汲む仏教を、大乗に対して「小乗仏教」と呼びました。しかし、差別的な表現だということで、現在では「上座部仏教」等と呼ばれています。

 

 上座部仏教は、主にタイなど南側ルートへ伝播されていくことから「南伝仏教」と呼ばれ

大乗仏教は主に中国や日本など北側のルートで伝播されていくことから「北伝仏教」とよばれました。

ですから、日本に最初に入ってきた仏教はすでに「大乗仏教」でありました。

奈良仏教、そして平安仏教へと、新しい仏教が次々と入ってきましたが、一口に大乗仏教と申しましても、経典もたくさんありますし、それを論じた書物などもたくさんあります。

しかしながら、動乱の時代の中にあって、いくら大乗とはいっても、それは完全なものではなかったのです。

と申しますのも、農民の人、戦で人を殺している武士の人、体を売って稼ぐしか生きるすべを持たない人など、苦しむ人たちが大勢いる中で、まだ大乗の中にあって「自利」の色が強い仏教が主だったのです。

 

そういった中で時代は鎌倉時代へと移って行きます。

当時、日本の最高学府は比叡山でした。

出家した僧たちは比叡山で学び、時に留学したりして、新しい仏教のスタイルを築いていきます。

とはいえ、新しい仏教を勝手に作ったのではありません。

豊富な書の中から、自らの求める救いを選んでいったと言うのが適切でしょう。

先ほどの例でいえば、「私は青函トンネルを抜けるルートを選びました」「私はヘリで一気に飛び越えるルートを選びました」という類のものだと思って下さい。

基本の中には「波に対して、船を垂直に向けよ!」「潮の流れに対して、垂直には進めない、斜めに進むものと心得よ」等いろいろと書かれていたとしても、津軽海峡を渡りきるという根本をきちんと押さえて渡り切れば、それらのノウハウは必要ないわけです。夫々の事情に合わせて、求めるものに合わせて、渡る手段を選ぶように、たくさんの経や書の中から、求めるものを探し選び、精査していったのです。

 

 そんな鎌倉時代の仏教の中に登場したのが法然上人です。

彼の勉学の才については、今も語り継がれるほど優れておりますが、そんな上人が選び取ったのが、浄土宗の教えです。上人の著書である撰択本願念仏集の名前は聞いた事がある方も多いと思いますが、読んで字の如し「本願念仏を撰択」したのです。

よく日本の仏教は「改造」だと言われますが、少なくとも浄土宗の教義は改造ではありません。

広く多岐に渡る教えの中から「選び抜いた」仏教なのです。

教義の要となる経も「無量寿経」であり、経の中に上人が根拠とし、本願とされた一節(第十八願)が明記されています。

 

 この浄土宗の教えは大変すばらしいもので、一般の人へも次第に広まっていくことになります。

それはそうですよね。お念仏申せば一切の差別なく救われるわけですから、農民だろうが武士だろうが「私に救われる道はないのか・・・」となっていた人たちにとってはこんな良い話はありません。

先述した、時代や事情、人に合わせた変化のひとつがこの鎌倉仏教のスタイルの特徴だと言えるでしょう。

決して、一から新しいものを勝手に作り出したのではなく、広く展開されている教えの中から、時代や人に合わせた教えを選びとり、それを中心に様々な書を読み解き、教義としてまとめあげたのです。

しかし、その時代の他宗派からは、延暦寺奏状や興福寺奏状といった「そんな教え認められん!やめろ!」と言った動きを受けることになりました。

そんな事があった中で、後鳥羽上皇の可愛がっていた松虫姫と鈴虫姫が、法然の元へ行ったり、招いたりした挙句、出家してしまう事案が発生し、上皇の怒りを買いました。

その結果、法然上人、そして弟子である親鸞聖人は流罪となり、僧籍(僧侶の籍・資格)を剥奪されることになります。だいぶ端折っていますが、これが承元の法難と呼ばれる事件です。

これによって、法然上人は藤井元彦と、親鸞聖人も藤井善信という俗名を与えられることになりました。

親鸞聖人は、これにより「僧侶ではなくなった」が、念仏のみ教えに生き、み教えを広める身なので「俗人でもない」というわけで、非僧非俗(僧に非ず俗に非ず)としました。

 

 親鸞聖人は僧侶の身でありながら妻帯しておりました。

(時期や場所は複数の説があります)

話が前後しますが、妻帯へ至るルートも紹介しておきます。

親鸞聖人が比叡山を後にし、六角堂に百日間篭った時の話です。

95日目に、救世観音が姿を変えて現れ

 行者宿報設女犯
 我成玉女身被犯
 一生之間能荘厳
 臨終引導生極楽

と告げたとされています。

簡単に言えば、例え女性と性交することがあったとしても、私が玉女となって抱かれましょう。そして、生涯を飾り臨終の時には私が極楽へと導きましょう。というような内容です。

 親鸞聖人は、法然上人の元で、お念仏のみ教えを受け、念仏者として生きる中で

仏教で禁忌とされているさまざまなことが、往生浄土への妨げにならない事を知りますが、私の勝手な推測ですが、従来の仏教に矛盾を感じていたのではないかと思います。

例えば食事ひとつをとっても、植物は良くて、肉は駄目というのは矛盾です。

どちらも同じ命です。

それどころか、知らずに蟻のような小さな虫を踏み潰してしまうこともあれば、現代でいえば、病魔を治療することもまた殺生です。白血球は体内で細菌などを次々に殺しています。

聖人の時代に白血球なんて言うつもりはありませんが、このような矛盾に対する答えを持っておらず、六角堂での夢告、法然上人の元で知った、何事も妨げにならないお念仏のみ教えによって、この問いが解決したのではないかと思います。

僧侶による肉食妻帯のルーツはここにあります。

 

 さて、親鸞聖人が七高僧として選定された方々の中に「道綽禅師」と言う方がおられます。

七高僧については、また別の機会にお話できればと考えておりますので、今回はかなり簡潔めに申しますが、中国で道綽禅師が生まれた時代というのは、なかなかに激しい時代でして、飢饉や害虫による害、加えて経典燃やせ、仏像ぶっこわせな武帝がいたりと、大変な時期でした。

加えて、釈尊の没後の経過的に、末法の時代に入ったという考えを持っておりました。

そんな中で、道綽禅師は浄土の教えと出会うことになります。

そして、「時代や人に合わせた仏教」という「約時被機」という考えの下

仏教を「聖道門」と「浄土門」の二門に判別しました。

つまり、厳しい戒律を守って修行して救われる事ができる人は聖者であって

そういう人は聖者の道である聖道門の行をしたらよいけれど、私たちのような凡人には到底そんな事ができないので、そういう人たちの道として浄土門(浄土のみ教え)があるのだというわけです。

何が言いたいのかと申しますと、鎌倉時代法然上人が行ったような、広く多岐にわたる教えの中から、自らが求める救いを選び取り実践する仏教のルーツが明確になったのは、この道綽禅師の「約時被機」がポイントになっているという事です。

 道綽禅師以前の七高僧の教義も、道綽禅師へと繋がるルートとしてありますので、例えば二門をいきなり判釈したのではなく、それまでに難易二道として分けられていたものを二門と掘り下げて判釈していく等、法然上人、親鸞聖人へと繋がる七高僧のルートがあります。

先ほども申しましたとおり、また別の機会にお話させていただければと考えています。

 

 さて、まとめますと、最初に申した飲酒肉食妻帯へと繋がるルーツは、日本では浄土宗からの浄土真宗にありますが、そのルーツを作るルートは、道綽禅師の約時被機の考えで「時代や人に合わせた仏教が必要である」と明らかにされ、そこに至るルートを遡ると、釈尊没後の根本分裂に至るというわけです。

ちなみに、私は肉食妻帯していますが、酒だけは飲まないというより、飲めないスーパー下戸です(笑)

とある業者の悲鳴

 先程、子供の行事等を撮影してDVDを販売する業者が悲鳴をあげているという記事を拝見しました。

大まかな内容としては、購入した一部の保護者に違法コピーしてもらうために、殆ど売れないというもの。

 

 この記事に対する反応は、「そういう時代だから仕方ない」「業者は高すぎる」

という、違法コピー支持の意見が目立つようです。

 

違法だと申しましても、コピーが簡単にできてしまうご時世です。

業者が声をあげても、しらを切られてしまえばそこまででしょうし、保護者側がわざわざ問題にすることも考えにくいことです。

購入者だけが視聴できるシステムというのも困難です。

ダウンロードコードなんて無意味ですし、コピーガードすら無意味です。

特定の場所に足を運んでもらえばいつでも見られるといったシステムではあまりに購入者への負担が過ぎます。

ですから、法的に問題のある事でありながらも、この案件が無くなることは当分ないと予想されます。

 

 さて、この事について、皆さんはどのように捉え、どのように考えるのでしょうか?

 

 私としては、どちらの言い分も理解できますが、理解できるにすぎず、これは様々な事柄の縮図のように思えてなりませんでした。

 

 「餅は餅屋」なんて諺がありますが、プロとして生業にする者の多くは、多くの素人では届かない領域の仕事をします。

そして、素人ではわからない程の微々な差も大事にします。

例えば、故あって、この件のプロの現場で働くエンジニアさんも割と詳しく知っております。

最近のカメラの性能が向上して、素人でも綺麗な写真や動画が撮影できるようになりましたが、それでもテレビ等のメディアの映像と、YouTube等でみかける素人のクオリティの高い映像とでは、やはり差があります。

中には素人でありながら、プロ並の知識や技術を持つ者も存在します。それはどの業界であっても同じです。

しかし、殆どはプロの映像とは様々な差が生じています。

それは、写真一枚撮るにも、構図、照明の関係、演出などなどプロとして培ったノウハウがあり、それを支える高価で高性能な機器があり、高いクオリティの素材をさらに良くする為の技術をも持っているからこそできる業です。

演奏会の演奏をCDにする場合でも、録音するのにセンターのマイクの種類はどうするのかサイドのマイクはどうするのか、どこのメーカーのマイクをどこに何本立てるのかを空間の材質や季節による服装による吸音等も見越し、目的によって選び、リハーサルなしの本番でも最初から綺麗に録音できるように、入念なチェックを行い、それらの音をバランスよく配置し、持ち帰って修正し、雑踏等のノイズを音質を維持したまま極力抑え、バランス良く、しっかりとした音圧で届くようにマスタリング処理を行います。

 

 だからプロなんです。

レンジで温めるだけのご飯も、スーパーでパック詰めされたご飯も、家庭で炊いたご飯も、プロの料理人が厳選した米を念入りに研ぎ、厳選した水で緻密な火加減を行って炊いたご飯も、同じクォリティなわけがないのです。

味や食感の違いすらわからない人だらけになってしまったなんてことはないでしょう?

「ご飯なんて腹が膨れればいいから」

というのであれば、それで良いですが

その範疇を超えて、プロが真剣に炊き上げたご飯を、材料費にもならない値段や無料で食べさせてほしいというのはどうでしょう?

もし食べさせて頂けたなら、それは感謝すべき厚意です。

そうでもないのにそれを求めるのは、真剣に向き合う人たちに対する冒涜に同じです。

 

 以前も対価のお話を書かせて頂きましたが、あまりに思慮がないと感じるコメントが目につきましたので厳しい書き方をさせていただきました。

 

 一方で、「時代」というワードは非常に現実的な問題です。実際に、プロのクォリティとまではいかなくても、一昔前よりはるかに進歩した機器が比較的安価に手に入る時代に、「思い出の一ページとして楽しむだけだから、そこまでのクオリティは求めない」というのであれば、父兄の方が撮影したもので充分に満足するのは至極当然の話です。我が子をメインにカメラ割することもできますし、厚意でコピーして他の家庭にプレゼントするのも自由です。

技術が進歩したからこそ、素人とプロとの差が少し縮まったのも事実ですから、そうなると、そういった現場にプロは必要なくなっていくのも道理です。

 

 将来的には、あらゆる分野でプロとの差はもっと詰まっていくことでしょう。

しかし、その結果その行き着く先からプロがほとんど淘汰されてしまったとしたらどうでしょう?

「技術はほぼ、そこで止まります」

開発する側もどこをどう改善してよいのか、より良いものを知る者がほとんどいないのに加えて、僅かに残ったプロが切磋琢磨し研鑽する機会も激減しているわけですから、ご意見を伺うにも新しい事は特に・・・。

淘汰されなくとも、ほぼ一強状態で残る分野もあるでしょう。

例えば周囲にコンビニが一社しかない世界。

これは最近そうなりつつあるように感じていますが。

毎日お弁当を購入しなければならないような人が、まず飽きて困ることになります。

小まめな内容入れ替えのようなコストのかかることは期待できません。

かといって、力に差がつきすぎると、新たな出現は非常に困難を極めるようになりますし、出現しても、巨大な力の前にねじ伏せられてしまうことも否定できません。

 

そんな世界はどんな感じなのでしょうね。

不満を持ちながらも不便ではないと思います。

しかし、胸が躍るような機会が激減するのも間違いないでしょうね。

そんな時代に生きる人間の心は、暮らしは、人間関係はどんな風になるのでしょうね。

 

私自身はと申しますと、淘汰されてしまった未来を考えたときに後悔するぐらいなら、現在の僅かな不便を選びます。

実際にコンビニを利用するにも、意識的に偏らないように利用しております。

門徒さんの世話が減ってしまったお寺での法要の後片付けを手伝ったりもします。

 

自然淘汰だ」

と言ってしまうのは簡単ですが、支えあう事が巡り巡って自分達の為になることも多いと思うのです。

ついでだからとちょっと手伝う。

困っている人を思いやり、微力ながら手を差し出す。

ただの独りよがりかもしれませんが、以前にも記載した「リレー」をしているにすぎません。

 

「日本人は世界的にみても本当に親切だ」

 

とお話してくださった大学の学長さんがおりますが、そのお話の中で繰り返されたのは「ご縁」というキーワードでした。

 

今回の件についても、「買う買わない」はそれぞれ自由ですし、何ひとつ私から申し上げることはありません。しかしながら、この件について、事情もよく考えずにきつい発言を行ったり、言い訳があるから違法コピーしても良いというような事を考え支持したり、何も考えずにコピーを願い出たり、「自分さえ良ければ」という意思が見え隠れしているように感じてなりません。

「ご縁」というキーワードは本当に素敵です。

この機会に一度思いを巡らせて頂ければ幸いに思います。

耳の痛い話

headlines.yahoo.co.jp

 このような記事がありました。

この記事のコメント、加えて他にもこの記事を取り上げておられる、いわゆるまとめサイトにもお邪魔して数々のコメントを読ませて頂きました。

言いたい事、反論したい事も多々ありますが、全体的に非常に耳が痛いお話ばかりです。

中には、他宗派に対するものだというものもあれば、色々と混同しておられるなというものもありましたが、それも全て踏まえて、「僧侶による、これまでのツケ」だと受け取らせて頂きました。

一般の方々の、厳しい声が物語るもの。

コメントのひとつひとつに「言い訳」をするのは簡単です。

しかしながら、これからの僧侶として課せられた役割は、真の御教えを一人でも多くの方に伝える事であって、「言い訳」をして訂正することではありません。

 伝える事ができていなかったからこそ、宗派や教義の混同が起きているのです。

末法だ、五濁だで片付けてはいけないことです。

他の誰のせいでもない、私たち僧侶の自業自得です。

そして、この場を借りて本山にも一言。

共にこの厳しいお叱りを、受け止めて頂きたいです。

 

 先日法要の席で、お坊さん方と話をしていた時、とある世間話から宗派の教義の話になりました。そんな中で、私が「三願転入ですね」と申したところ一人を除いて「???」。

思わず、その一人と顔を見合わせてしまいました。

専門家であるべきはずの僧侶がその状態です。

私が愛読していた料理人の漫画の中に

「親父さんの1の仕事は10に支えられた仕事。」

といった台詞が登場します。

正直申しまして、お経をあげることが出来るご門徒さんは大勢いらっしゃいます。

法要の席で、ご門徒さんも一緒に声を出しておられる姿を毎回見ております。

お経の本とお手本のCDでもあれば誰にでもできるような事です。

ところが、それしかしていない僧侶が、悲しいかな非常に多いのも事実です。

お経の中に何が書かれているのか、それを法然上人や親鸞聖人はどう受け止められたのか。いくつもあるお経を照らし合わせた時に起こりうる矛盾のようなものをどう解釈するのか等々、例えおおまかにでも把握してお経をよむ僧侶は少数派です。

 現在本山は「僧侶の質の向上」に取り組んでいるという話は聞いております。

しかし、その取り組み案は、大ハズレとは申しませんが、的中でもないように感じます。

以前

gutoku-en.hatenablog.comという記事を書かせて頂きました。

 昨今問題になっている「煽り運転」ですが、相変わらず煽り運転のニュースや体験者の報告は落ち着く様相を見せません。

彼らは講習を受け、筆記テスト、実技テストをクリアして免許を受けています。

彼らは責任あるドライバーとして適切ですか?

テストやそれによる資格は、「書けた」「出来た」を見ることしかできません。

極論を言えば、そんなものは後からどうにでもなるし、カンペを見ればできる程度の事です。

本当に根本的に見直したいのであれば、どうするべきかはおのずと導かれると思います。

本山である以上、末寺以上に先立って行動する必要があります。

繰り返しになりますが、共にお叱りを受け止めて下さるようお願いします。

 

 

 さて、お叱りの内容にも関連することですが、浄土真宗の坊さんってどういう位置付けなの?と聞かれる事があります。

浄土真宗では僧侶も含め「悪人」でありますから、全て「阿弥陀如来」におまかせします。

ならば、僧侶は何の為にいるのかというのは当然の疑問です。

人によって、答えは様々ありましょうが、私なりの考えをこの機会にお話させて頂こうと思います。

 

 私は、資格的には僧侶ですが、親鸞聖人のおっしゃったように「非僧非俗」です。

しかしながら、寺で僧侶として日暮らしさせて頂いております。

そんな私の僧侶としての要は、お経をよむことでも、儀式をすることでも、ご法話をすることでもなく「お念仏のご縁を繋ぐ事」だと考えております。

法話はその為の機会のひとつであることは間違いありませんが、そういうことではないのです。

 

 人々と接する中にある様々な機会に、共に悩み、共に考え、私と同じ悪人であることに気付いて頂き、阿弥陀如来のお念仏の御教えをお伝えして、御同朋、御同行として共にご縁をよろこび、共にお念仏申させて頂くのが私の考える浄土真宗の僧侶なのです。

 

そんな私は、好きな事を仕事にしています。

私は人とお話するのが好きです。

人と共に悩み考えるのが好きです。

そして共にお念仏のみ教えに触れ、笑顔を見ながら共によろこぶことが大好きです。

 

 これまでの僧侶人生の中で極少数ではありますが、私がお経をよむ後ろで笑顔で涙を流された方がおります。(勿論葬儀等は除いてです)

私とご縁があり、様々な話を楽しみ、共に様々な悩み事を共有され、お念仏の御教えをお伝えした方です。

念仏者としてこれ以上嬉しい事はありません。

今年もそろそろタイヤ交換

 私の住む地域は降雪地ですので、毎年このぐらいの時期から12月頭にかけて、タイヤ交換をする風景が見られます。

公共交通などのインフラが整っていないので、車は必需品なのですが、それだけに車を所有している人の割合も多く、晴れた土日には、「カランカラーン」と工具を地面に置く音が聞こえてきます。

すると、それを合図にしたかのように、あちらこちらから同じような音が聞こえてくる風景というのは、こういう土地に長年住む者としては、もはや季節感すら覚えます。

 

 さて、今年はじめに北陸で豪雪となり、災害レベルの混乱が起きた事は、まだ記憶に新しいと思いますが、そんな中で、「チェーン義務化」のニュースが舞い込んできました。

しかしながら、このチェーン義務化はできるならば施行されない事を願いたいものです。

 

インフラの整っていない、車が必需品という地方での、小まめな脱着の手間は相当な負担になります。

そもそも、今年の豪雪時であっても、悪路に強い乗用車等の立ち往生は、一台も目撃しておりません。

仏教の話に、毒矢を射られた鹿の話があります。

簡単に説明しますと

「毒矢を射られた鹿が死にかけて苦しんでいる時に、真っ先に必要な事は矢を抜き、解毒し傷口を治療するなど適切な処置を行う事ですよ。

治療より先に、その矢に塗られた毒がなにか、射った人は男性か女性か・・・等を気にしていても、それらが判明するのを待っていては鹿は助かりませんよ。」

という話です。

ニュースを目にした際に、その話がまっさきに浮かんでまいりました。

そして、地元の方々であればお分かりのことと思いますが

今年のような豪雪による混乱を治療するのであれば

その患部は

・除雪体制

・中型~大型車両

・油断

このキーワードですね。

 

靴擦れ対策に絆創膏を貼ることを義務化と言われても、靴擦れしにくいスニーカーやサンダルにまで絆創膏を貼る効果はそれほど期待できません。

メーカーは靴擦れしにくい靴を作る努力をし、消費者は念入りに自分の足に合わせて靴擦れしにくい靴を選び、やむなく靴擦れしやすいと分かっている靴に対しては対策を徹底し、万が一に備えて絆創膏や傷薬を持ち歩くのが適切な治療だと思うのですが。