はいっ坊主

坊主が気まぐれに日々のご縁をしるします

ちょっと気になった記事を解説してみようと思います。

昨日、このような記事を発見しました。

【悲報】中国「日本の仏僧っておかしくね?」→ 内容がwwwwwwwwwwwwwwwwwww - エクサワロス | ニュースまとめサイト

exawarosu.net

とりあえず、説明をしてあげたいなと思ったのですが、いかんせん簡単に説明できるものではないので、このブログに書いてしまおうというわけです。

そもそも、チベット問題などなどのある中国の方が言うことではないと思いますが・・・。

 

 まず、話の内容としてのポイントが、肉を食べたり酒を飲んだり結婚したりという点にあるので、ここへ通じるルートの説明からする必要があります。

 

過去の記事でも紹介しておりますが、仏教教団は釈尊の没後、分裂を繰り返します。

その理由の一つに、布施の扱いがあることも記載しましたが、簡単にもう一度記載しておきます。

托鉢をした際などに、食物等を布施されるわけですが、中には余ってしまう調味料なんかもあったわけです。

こういうものを、蓄えてとっておいても良いかどうか?

普通に考えれば、「いいんじゃない?」となりそうですが

備蓄しておくということは「財産」とみなされるわけです。

ここが仏教教団の中で意見が分かれる要因となったのですね。

他にも色々とありますが、とりあえずはこのような問題などを巡って分裂をしていくわけですが、「釈尊が言ってない事はしない派」と「時代や事情に合わせてもいいじゃないか派」との対立と考えてもらうと話は分かりやすいと思います。

 

 仏教には根本理念がありまして、三法印(または四法印)といいます。

そしてこの理念があれば仏教で、なければ仏教ではないと考えて良いという事を以前の記事にも書かせてもらいました。

この根本理念に、先述した備蓄の要素など登場しません。

つまり、根本理念をきちんと押さえつつ、時代じゃ事情に合わせていくという流れはここに源流があると申して良いでしょう。

 

 根本理念を押さえつつというのは、簡単に言えばこういう事です。

北海道から本州へと移動するにあたって「津軽海峡を渡りきる事」が根本理念だとしましょう。

昔のように、小さな船で潮流の早い津軽海峡に漕ぎ出して渡る事が基本だったとしても

技術が発展して、安全で快適なフェリーが出来たならそれに乗って渡っても、根本理念は押さえています。

青函トンネルを抜けても、飛行機やヘリコプターを使っても、「津軽海峡を渡りきる」という根本はきちんと押さえられています。

 仏教の根本理念をきちんと押さえておけば、時代や事情、人に合わせて手段などが変化しても、それは仏教なのだというのはこういう事なのです。

 

 さて、仏教の原点へと戻ってみましょう。

これも以前の記事で紹介しておりますが、釈尊の生涯を見ますと

簡単に言えば「生老病死」の迷い悩みとの戦いでした。

そして、その悩み迷う姿は「人間そのもの」です。

釈尊も人間ですし、仏陀となった後に釈尊に救いを求め集まった人もまた人間そのものです。

釈尊は、その人その人に合わせて、様々な説法を展開します。

釈尊の弟子たちもいれば、一般の方もいたでしょう。

その教えの数は少なくとも8万4千にもなります。

仏教が「八万四千の法門」と呼ばれるのは、後に釈尊の弟子が、私が聞いたと言った教えの数に由来しています。

 

 現在、物的証拠として発見されていませんが、現存する最も古い仏教経典などを紐解きますと、その内容は「自利(自分を救う)」です。

つまり、出家して修行した人のみが救われていくような教えになっています。

勿論、一般の方の布施による善行なんかもあるのですが、まぁ弱いです。

涅槃寂静には程遠いです。

となりますと、出家して修行できない人たちはどうしたら良いのでしょう?

そこで登場するのが「大乗仏教」です。

登場するのが自然と言ってもなんら違和感のないぐらい、当然求められたであろう大乗仏教ですが、その理由の最も特徴的な部分が「利他(みんな救う)」です。

一方、「釈尊の言ってない事はしない派」の流れを汲む仏教を、大乗に対して「小乗仏教」と呼びました。しかし、差別的な表現だということで、現在では「上座部仏教」等と呼ばれています。

 

 上座部仏教は、主にタイなど南側ルートへ伝播されていくことから「南伝仏教」と呼ばれ

大乗仏教は主に中国や日本など北側のルートで伝播されていくことから「北伝仏教」とよばれました。

ですから、日本に最初に入ってきた仏教はすでに「大乗仏教」でありました。

奈良仏教、そして平安仏教へと、新しい仏教が次々と入ってきましたが、一口に大乗仏教と申しましても、経典もたくさんありますし、それを論じた書物などもたくさんあります。

しかしながら、動乱の時代の中にあって、いくら大乗とはいっても、それは完全なものではなかったのです。

と申しますのも、農民の人、戦で人を殺している武士の人、体を売って稼ぐしか生きるすべを持たない人など、苦しむ人たちが大勢いる中で、まだ大乗の中にあって「自利」の色が強い仏教が主だったのです。

 

そういった中で時代は鎌倉時代へと移って行きます。

当時、日本の最高学府は比叡山でした。

出家した僧たちは比叡山で学び、時に留学したりして、新しい仏教のスタイルを築いていきます。

とはいえ、新しい仏教を勝手に作ったのではありません。

豊富な書の中から、自らの求める救いを選んでいったと言うのが適切でしょう。

先ほどの例でいえば、「私は青函トンネルを抜けるルートを選びました」「私はヘリで一気に飛び越えるルートを選びました」という類のものだと思って下さい。

基本の中には「波に対して、船を垂直に向けよ!」「潮の流れに対して、垂直には進めない、斜めに進むものと心得よ」等いろいろと書かれていたとしても、津軽海峡を渡りきるという根本をきちんと押さえて渡り切れば、それらのノウハウは必要ないわけです。夫々の事情に合わせて、求めるものに合わせて、渡る手段を選ぶように、たくさんの経や書の中から、求めるものを探し選び、精査していったのです。

 

 そんな鎌倉時代の仏教の中に登場したのが法然上人です。

彼の勉学の才については、今も語り継がれるほど優れておりますが、そんな上人が選び取ったのが、浄土宗の教えです。上人の著書である撰択本願念仏集の名前は聞いた事がある方も多いと思いますが、読んで字の如し「本願念仏を撰択」したのです。

よく日本の仏教は「改造」だと言われますが、少なくとも浄土宗の教義は改造ではありません。

広く多岐に渡る教えの中から「選び抜いた」仏教なのです。

教義の要となる経も「無量寿経」であり、経の中に上人が根拠とし、本願とされた一節(第十八願)が明記されています。

 

 この浄土宗の教えは大変すばらしいもので、一般の人へも次第に広まっていくことになります。

それはそうですよね。お念仏申せば一切の差別なく救われるわけですから、農民だろうが武士だろうが「私に救われる道はないのか・・・」となっていた人たちにとってはこんな良い話はありません。

先述した、時代や事情、人に合わせた変化のひとつがこの鎌倉仏教のスタイルの特徴だと言えるでしょう。

決して、一から新しいものを勝手に作り出したのではなく、広く展開されている教えの中から、時代や人に合わせた教えを選びとり、それを中心に様々な書を読み解き、教義としてまとめあげたのです。

しかし、その時代の他宗派からは、延暦寺奏状や興福寺奏状といった「そんな教え認められん!やめろ!」と言った動きを受けることになりました。

そんな事があった中で、後鳥羽上皇の可愛がっていた松虫姫と鈴虫姫が、法然の元へ行ったり、招いたりした挙句、出家してしまう事案が発生し、上皇の怒りを買いました。

その結果、法然上人、そして弟子である親鸞聖人は流罪となり、僧籍(僧侶の籍・資格)を剥奪されることになります。だいぶ端折っていますが、これが承元の法難と呼ばれる事件です。

これによって、法然上人は藤井元彦と、親鸞聖人も藤井善信という俗名を与えられることになりました。

親鸞聖人は、これにより「僧侶ではなくなった」が、念仏のみ教えに生き、み教えを広める身なので「俗人でもない」というわけで、非僧非俗(僧に非ず俗に非ず)としました。

 

 親鸞聖人はこの時、妻帯しておりました。

話が前後しますが、妻帯へ至るルートも紹介しておきます。

親鸞聖人が比叡山を後にし、六角堂に百日間篭った時の話です。

95日目に、救世観音が姿を変えて現れ

 行者宿報設女犯
 我成玉女身被犯
 一生之間能荘厳
 臨終引導生極楽

と告げたとされています。

簡単に言えば、例え女性と性交することがあったとしても、私が玉女となって抱かれましょう。そして、生涯を飾り臨終の時には私が極楽へと導きましょう。というような内容です。

 親鸞聖人は、法然上人の元で、お念仏のみ教えを受け、念仏者として生きる中で

仏教で禁忌とされているさまざまなことが、往生浄土への妨げにならない事を知りますが、私の勝手な推測ですが、従来の仏教に矛盾を感じていたのではないかと思います。

例えば食事ひとつをとっても、植物は良くて、肉は駄目というのは矛盾です。

どちらも同じ命です。

それどころか、知らずに蟻のような小さな虫を踏み潰してしまうこともあれば、現代でいえば、病魔を治療することもまた殺生です。白血球は体内で細菌などを次々に殺しています。

聖人の時代に白血球なんて言うつもりはありませんが、このような矛盾に対する答えを持っておらず、六角堂での夢告、法然上人の元で知った、何事も妨げにならないお念仏のみ教えによって、この問いが解決したのではないかと思います。

僧侶による肉食妻帯のルーツはここにあります。

 

 さて、親鸞聖人が七高僧として選定された方々の中に「道綽禅師」と言う方がおられます。

七高僧については、また別の機会にお話できればと考えておりますので、今回はかなり簡潔めに申しますが、中国で道綽禅師が生まれた時代というのは、なかなかに激しい時代でして、飢饉や害虫による害、加えて経典燃やせ、仏像ぶっこわせな武帝がいたりと、大変な時期でした。

加えて、釈尊の没後の経過的に、末法の時代に入ったという考えを持っておりました。

そんな中で、道綽禅師は浄土の教えと出会うことになります。

そして、「時代や人に合わせた仏教」という「約時被機」という考えの下

仏教を「聖道門」と「浄土門」の二門に判別しました。

つまり、厳しい戒律を守って修行して救われる事ができる人は聖者であって

そういう人は聖者の道である聖道門の行をしたらよいけれど、私たちのような凡人には到底そんな事ができないので、そういう人たちの道として浄土門(浄土のみ教え)があるのだというわけです。

何が言いたいのかと申しますと、鎌倉時代法然上人が行ったような、広く多岐にわたる教えの中から、自らが求める救いを選び取り実践する仏教のルーツが明確になったのは、この道綽禅師の「約時被機」がポイントになっているという事です。

 道綽禅師以前の七高僧の教義も、道綽禅師へと繋がるルートとしてありますので、例えば二門をいきなり判釈したのではなく、それまでに難易二道として分けられていたものを二門と掘り下げて判釈していく等、法然上人、親鸞聖人へと繋がる七高僧のルートがあります。

先ほども申しましたとおり、また別の機会にお話させていただければと考えています。

 

 さて、まとめますと、最初に申した飲酒肉食妻帯へと繋がるルーツは、日本では浄土宗からの浄土真宗にありますが、そのルーツを作るルートは、道綽禅師の約時被機の考えで「時代や人に合わせた仏教が必要である」と明らかにされ、そこに至るルートを遡ると、釈尊没後の根本分裂に至るというわけです。

ちなみに、私は肉食妻帯していますが、酒だけは飲まないというより、飲めないスーパー下戸です(笑)

とある業者の悲鳴

 先程、子供の行事等を撮影してDVDを販売する業者が悲鳴をあげているという記事を拝見しました。

大まかな内容としては、購入した一部の保護者に違法コピーしてもらうために、殆ど売れないというもの。

 

 この記事に対する反応は、「そういう時代だから仕方ない」「業者は高すぎる」

という、違法コピー支持の意見が目立つようです。

 

違法だと申しましても、コピーが簡単にできてしまうご時世です。

業者が声をあげても、しらを切られてしまえばそこまででしょうし、保護者側がわざわざ問題にすることも考えにくいことです。

購入者だけが視聴できるシステムというのも困難です。

ダウンロードコードなんて無意味ですし、コピーガードすら無意味です。

特定の場所に足を運んでもらえばいつでも見られるといったシステムではあまりに購入者への負担が過ぎます。

ですから、法的に問題のある事でありながらも、この案件が無くなることは当分ないと予想されます。

 

 さて、この事について、皆さんはどのように捉え、どのように考えるのでしょうか?

 

 私としては、どちらの言い分も理解できますが、理解できるにすぎず、これは様々な事柄の縮図のように思えてなりませんでした。

 

 「餅は餅屋」なんて諺がありますが、プロとして生業にする者の多くは、多くの素人では届かない領域の仕事をします。

そして、素人ではわからない程の微々な差も大事にします。

例えば、故あって、この件のプロの現場で働くエンジニアさんも割と詳しく知っております。

最近のカメラの性能が向上して、素人でも綺麗な写真や動画が撮影できるようになりましたが、それでもテレビ等のメディアの映像と、YouTube等でみかける素人のクオリティの高い映像とでは、やはり差があります。

中には素人でありながら、プロ並の知識や技術を持つ者も存在します。それはどの業界であっても同じです。

しかし、殆どはプロの映像とは様々な差が生じています。

それは、写真一枚撮るにも、構図、照明の関係、演出などなどプロとして培ったノウハウがあり、それを支える高価で高性能な機器があり、高いクオリティの素材をさらに良くする為の技術をも持っているからこそできる業です。

演奏会の演奏をCDにする場合でも、録音するのにセンターのマイクの種類はどうするのかサイドのマイクはどうするのか、どこのメーカーのマイクをどこに何本立てるのかを空間の材質や季節による服装による吸音等も見越し、目的によって選び、リハーサルなしの本番でも最初から綺麗に録音できるように、入念なチェックを行い、それらの音をバランスよく配置し、持ち帰って修正し、雑踏等のノイズを音質を維持したまま極力抑え、バランス良く、しっかりとした音圧で届くようにマスタリング処理を行います。

 

 だからプロなんです。

レンジで温めるだけのご飯も、スーパーでパック詰めされたご飯も、家庭で炊いたご飯も、プロの料理人が厳選した米を念入りに研ぎ、厳選した水で緻密な火加減を行って炊いたご飯も、同じクォリティなわけがないのです。

味や食感の違いすらわからない人だらけになってしまったなんてことはないでしょう?

「ご飯なんて腹が膨れればいいから」

というのであれば、それで良いですが

その範疇を超えて、プロが真剣に炊き上げたご飯を、材料費にもならない値段や無料で食べさせてほしいというのはどうでしょう?

もし食べさせて頂けたなら、それは感謝すべき厚意です。

そうでもないのにそれを求めるのは、真剣に向き合う人たちに対する冒涜に同じです。

 

 以前も対価のお話を書かせて頂きましたが、あまりに思慮がないと感じるコメントが目につきましたので厳しい書き方をさせていただきました。

 

 一方で、「時代」というワードは非常に現実的な問題です。実際に、プロのクォリティとまではいかなくても、一昔前よりはるかに進歩した機器が比較的安価に手に入る時代に、「思い出の一ページとして楽しむだけだから、そこまでのクオリティは求めない」というのであれば、父兄の方が撮影したもので充分に満足するのは至極当然の話です。我が子をメインにカメラ割することもできますし、厚意でコピーして他の家庭にプレゼントするのも自由です。

技術が進歩したからこそ、素人とプロとの差が少し縮まったのも事実ですから、そうなると、そういった現場にプロは必要なくなっていくのも道理です。

 

 将来的には、あらゆる分野でプロとの差はもっと詰まっていくことでしょう。

しかし、その結果その行き着く先からプロがほとんど淘汰されてしまったとしたらどうでしょう?

「技術はほぼ、そこで止まります」

開発する側もどこをどう改善してよいのか、より良いものを知る者がほとんどいないのに加えて、僅かに残ったプロが切磋琢磨し研鑽する機会も激減しているわけですから、ご意見を伺うにも新しい事は特に・・・。

淘汰されなくとも、ほぼ一強状態で残る分野もあるでしょう。

例えば周囲にコンビニが一社しかない世界。

これは最近そうなりつつあるように感じていますが。

毎日お弁当を購入しなければならないような人が、まず飽きて困ることになります。

小まめな内容入れ替えのようなコストのかかることは期待できません。

かといって、力に差がつきすぎると、新たな出現は非常に困難を極めるようになりますし、出現しても、巨大な力の前にねじ伏せられてしまうことも否定できません。

 

そんな世界はどんな感じなのでしょうね。

不満を持ちながらも不便ではないと思います。

しかし、胸が躍るような機会が激減するのも間違いないでしょうね。

そんな時代に生きる人間の心は、暮らしは、人間関係はどんな風になるのでしょうね。

 

私自身はと申しますと、淘汰されてしまった未来を考えたときに後悔するぐらいなら、現在の僅かな不便を選びます。

実際にコンビニを利用するにも、意識的に偏らないように利用しております。

門徒さんの世話が減ってしまったお寺での法要の後片付けを手伝ったりもします。

 

自然淘汰だ」

と言ってしまうのは簡単ですが、支えあう事が巡り巡って自分達の為になることも多いと思うのです。

ついでだからとちょっと手伝う。

困っている人を思いやり、微力ながら手を差し出す。

ただの独りよがりかもしれませんが、以前にも記載した「リレー」をしているにすぎません。

 

「日本人は世界的にみても本当に親切だ」

 

とお話してくださった大学の学長さんがおりますが、そのお話の中で繰り返されたのは「ご縁」というキーワードでした。

 

今回の件についても、「買う買わない」はそれぞれ自由ですし、何ひとつ私から申し上げることはありません。しかしながら、この件について、事情もよく考えずにきつい発言を行ったり、言い訳があるから違法コピーしても良いというような事を考え支持したり、何も考えずにコピーを願い出たり、「自分さえ良ければ」という意思が見え隠れしているように感じてなりません。

「ご縁」というキーワードは本当に素敵です。

この機会に一度思いを巡らせて頂ければ幸いに思います。

耳の痛い話

headlines.yahoo.co.jp

 このような記事がありました。

この記事のコメント、加えて他にもこの記事を取り上げておられる、いわゆるまとめサイトにもお邪魔して数々のコメントを読ませて頂きました。

言いたい事、反論したい事も多々ありますが、全体的に非常に耳が痛いお話ばかりです。

中には、他宗派に対するものだというものもあれば、色々と混同しておられるなというものもありましたが、それも全て踏まえて、「僧侶による、これまでのツケ」だと受け取らせて頂きました。

一般の方々の、厳しい声が物語るもの。

コメントのひとつひとつに「言い訳」をするのは簡単です。

しかしながら、これからの僧侶として課せられた役割は、真の御教えを一人でも多くの方に伝える事であって、「言い訳」をして訂正することではありません。

 伝える事ができていなかったからこそ、宗派や教義の混同が起きているのです。

末法だ、五濁だで片付けてはいけないことです。

他の誰のせいでもない、私たち僧侶の自業自得です。

そして、この場を借りて本山にも一言。

共にこの厳しいお叱りを、受け止めて頂きたいです。

 

 先日法要の席で、お坊さん方と話をしていた時、とある世間話から宗派の教義の話になりました。そんな中で、私が「三願転入ですね」と申したところ一人を除いて「???」。

思わず、その一人と顔を見合わせてしまいました。

専門家であるべきはずの僧侶がその状態です。

私が愛読していた料理人の漫画の中に

「親父さんの1の仕事は10に支えられた仕事。」

といった台詞が登場します。

正直申しまして、お経をあげることが出来るご門徒さんは大勢いらっしゃいます。

法要の席で、ご門徒さんも一緒に声を出しておられる姿を毎回見ております。

お経の本とお手本のCDでもあれば誰にでもできるような事です。

ところが、それしかしていない僧侶が、悲しいかな非常に多いのも事実です。

お経の中に何が書かれているのか、それを法然上人や親鸞聖人はどう受け止められたのか。いくつもあるお経を照らし合わせた時に起こりうる矛盾のようなものをどう解釈するのか等々、例えおおまかにでも把握してお経をよむ僧侶は少数派です。

 現在本山は「僧侶の質の向上」に取り組んでいるという話は聞いております。

しかし、その取り組み案は、大ハズレとは申しませんが、的中でもないように感じます。

以前

gutoku-en.hatenablog.comという記事を書かせて頂きました。

 昨今問題になっている「煽り運転」ですが、相変わらず煽り運転のニュースや体験者の報告は落ち着く様相を見せません。

彼らは講習を受け、筆記テスト、実技テストをクリアして免許を受けています。

彼らは責任あるドライバーとして適切ですか?

テストやそれによる資格は、「書けた」「出来た」を見ることしかできません。

極論を言えば、そんなものは後からどうにでもなるし、カンペを見ればできる程度の事です。

本当に根本的に見直したいのであれば、どうするべきかはおのずと導かれると思います。

本山である以上、末寺以上に先立って行動する必要があります。

繰り返しになりますが、共にお叱りを受け止めて下さるようお願いします。

 

 

 さて、お叱りの内容にも関連することですが、浄土真宗の坊さんってどういう位置付けなの?と聞かれる事があります。

浄土真宗では僧侶も含め「悪人」でありますから、全て「阿弥陀如来」におまかせします。

ならば、僧侶は何の為にいるのかというのは当然の疑問です。

人によって、答えは様々ありましょうが、私なりの考えをこの機会にお話させて頂こうと思います。

 

 私は、資格的には僧侶ですが、親鸞聖人のおっしゃったように「非僧非俗」です。

しかしながら、寺で僧侶として日暮らしさせて頂いております。

そんな私の僧侶としての要は、お経をよむことでも、儀式をすることでも、ご法話をすることでもなく「お念仏のご縁を繋ぐ事」だと考えております。

法話はその為の機会のひとつであることは間違いありませんが、そういうことではないのです。

 

 人々と接する中にある様々な機会に、共に悩み、共に考え、私と同じ悪人であることに気付いて頂き、阿弥陀如来のお念仏の御教えをお伝えして、御同朋、御同行として共にご縁をよろこび、共にお念仏申させて頂くのが私の考える浄土真宗の僧侶なのです。

 

そんな私は、好きな事を仕事にしています。

私は人とお話するのが好きです。

人と共に悩み考えるのが好きです。

そして共にお念仏のみ教えに触れ、笑顔を見ながら共によろこぶことが大好きです。

 

 これまでの僧侶人生の中で極少数ではありますが、私がお経をよむ後ろで笑顔で涙を流された方がおります。(勿論葬儀等は除いてです)

私とご縁があり、様々な話を楽しみ、共に様々な悩み事を共有され、お念仏の御教えをお伝えした方です。

念仏者としてこれ以上嬉しい事はありません。

今年もそろそろタイヤ交換

 私の住む地域は降雪地ですので、毎年このぐらいの時期から12月頭にかけて、タイヤ交換をする風景が見られます。

公共交通などのインフラが整っていないので、車は必需品なのですが、それだけに車を所有している人の割合も多く、晴れた土日には、「カランカラーン」と工具を地面に置く音が聞こえてきます。

すると、それを合図にしたかのように、あちらこちらから同じような音が聞こえてくる風景というのは、こういう土地に長年住む者としては、もはや季節感すら覚えます。

 

 さて、今年はじめに北陸で豪雪となり、災害レベルの混乱が起きた事は、まだ記憶に新しいと思いますが、そんな中で、「チェーン義務化」のニュースが舞い込んできました。

しかしながら、このチェーン義務化はできるならば施行されない事を願いたいものです。

 

インフラの整っていない、車が必需品という地方での、小まめな脱着の手間は相当な負担になります。

そもそも、今年の豪雪時であっても、悪路に強い乗用車等の立ち往生は、一台も目撃しておりません。

仏教の話に、毒矢を射られた鹿の話があります。

簡単に説明しますと

「毒矢を射られた鹿が死にかけて苦しんでいる時に、真っ先に必要な事は矢を抜き、解毒し傷口を治療するなど適切な処置を行う事ですよ。

治療より先に、その矢に塗られた毒がなにか、射った人は男性か女性か・・・等を気にしていても、それらが判明するのを待っていては鹿は助かりませんよ。」

という話です。

ニュースを目にした際に、その話がまっさきに浮かんでまいりました。

そして、地元の方々であればお分かりのことと思いますが

今年のような豪雪による混乱を治療するのであれば

その患部は

・除雪体制

・中型~大型車両

・油断

このキーワードですね。

 

靴擦れ対策に絆創膏を貼ることを義務化と言われても、靴擦れしにくいスニーカーやサンダルにまで絆創膏を貼る効果はそれほど期待できません。

メーカーは靴擦れしにくい靴を作る努力をし、消費者は念入りに自分の足に合わせて靴擦れしにくい靴を選び、やむなく靴擦れしやすいと分かっている靴に対しては対策を徹底し、万が一に備えて絆創膏や傷薬を持ち歩くのが適切な治療だと思うのですが。

観測者により収束する

物理学の世界で有名な思考実験に「シュレーディンガーの猫」というものがあります。

聞いた事がある方も多いことでしょう。

簡単に言いますと、1時間の間に半々の確率で装置が作動して生物を殺してしまう箱の中に猫を入れ、1時間後の猫がどうなっているか?という事です。

物理学の世界では、これを重なり合った状態といってみたりするようですが、簡単に言えば「開けて見てみないとわからない」という事です。

つまり、観察する者がいて、初めて結果として収束するわけですね。

 

さて、この話に似た話が有名な落語の中にも登場します。

それが「てれすこ」です。

 

簡単にあらすじを申しますと

見たこともない魚が獲れたのだが、さっぱりわからないので

この魚の名前を知ってる者には褒美を出すとしたところ

これは「てれすこ」という名前ですと言う男が現れました。

しかし、役人をはじめ誰もが知らない魚なので、それが正解かどうかの判断ができません。

男はまんまと褒美を貰う事になりました。

しかし、どうも疑わしいということで一計を案じた奉行は

この「てれすこ」を干したものを、この魚を知ってる者は褒美を・・と

以前と同じような事をふれます。

すると以前「てれすこ」と言って褒美を貰った男が現れ

「これは”すてれんきょう”です」と言ったから大変。

これは以前てれすこと申したではないか!

と男は捕らえられて打ち首を言い渡されてしまいます。

男は最後に妻子に会わせて欲しいと頼み、やってきた妻に対して

「子供が大きくなっても、イカの干したものをスルメと呼ばすなよ」

と遺言を伝えます。

元々知らない魚のこと、こういわれてしまうと納得するしかありません。

男は無罪放免となりました。

 

この二つの話の何が似ているのかと申しますと

どちらも「観測者によって収束している」という点です。

シュレーディンガーの猫は、観測者が箱を開けて観察してみなければ

状態が確定しない。

てれすこは、観測者が正解かどうかを判断できなければ真実かどうか確定しない。

観測者があって初めて結果が成立しうる事です。

仮に、シュレーディンガーの猫の観測者が、実際の結果と間逆の結果を伝えたらどうでしょう?実験の結果は正しく伝わっていませんが、伝えられたものは学者先生が実験したことだからと鵜呑みにして真実として伝わってしまうでしょう。

てれすこの役人の一人が「それは間違いだ」と声を出していたらどうなっていたでしょう?

 

私たちが何気なく過ごす日常の中にあって

私たち一人一人はその「観測者」にほかなりません。

あの角を曲がった先に人がいるのか、男性なのか女性なのか。

曲がった先の店は今日営業しているのか、いつものおばちゃんが店番をしているのか。

先に通った知り合いから、「店のおばちゃんに声かけられた」と情報をもたらされていても、あなたが通るタイミングでもおばちゃんが店番をしているとは限りません。

私たちの何気ない日常の全てが観測者である私たち一人一人が観察してみるまで収束しません。

しかし、観察しなくても、世の中はちゃんと動いています。

自分が確信を持てないだけで、実際には瞬間瞬間の状態が常に存在しています。

否定もできなければ、肯定もできません。

しかし、観測者のあなたが否定しようが肯定しようが、なんらかの状態は存在しているのです。

それは、あなたが「いつも通り」と感じることかもしれませんし

「え?まさか??」と感じる事かもしれませんよ。

 

あなたが観察していないだけで、あなたの嫌いな人がとても親切なことをしている可能性をあなたは否定できますか?

あなたが観察していないだけで、あなたの身を案じている存在がいる可能性をあなたは否定できますか?

 

暗中模索を暗中模索するという事

暗中模索というのは、「暗闇の中で手さぐりで捜す事」

つまりは、見通しが立たない物事を色々と試しては探るという意味で使われている言葉です。

 

 この記事を読まれている方の中には、社会人の方も居られるかもしれませんし、学生の方も居られるかもしれません。

皆さん、勉学であったり仕事であったりに接していく中で「分からない事」に遭遇することは珍しい話ではありません。「分からない事」に接して「分かろうとして」も、「何が分からないのか分からない」なんて事も多々あることでしょう。

 今から20年近く前になりましょうか。

個人がホームページを作るという事が、静かに流行した時期がありました。

今ではブログ等に取って代わられておりますが、HTMLというホームページに用いられる言語を入力していったり、またはそれを自動的に行ってくれるソフトを用いて、多くの方々が様々なホームページを制作され、同じ方向性を持つホームページの管理者さん同士でリングなるものを作ってサーフィンの便利化を図ったり等々、当時を知っている方からすれば、「あぁあったあった」という懐かしいネタのオンパレードかもしれません。

 私自身もまた、当時とある解説講座的なホームページを作っておりました。

結構マニアックなジャンルのものであったにもかかわらず、毎日のアクセス数が1600件越えをしておりまして、同じジャンルのホームページを作って居られた方々が多くてやっと二桁アクセスという中にあって不思議がられたものです。

そうしますと、非常にたくさんの方々から「質問」を受けるようになってまいります。

設置した掲示板は質問で埋め尽くされ、メールでも質問がどんどん届きます。

専門雑誌にホームページが紹介されたりしていきますと、その数は日増しに増えていきました。

 そんな「質問」の中身ですが、ホームページ内でしっかりと解説済な事が非常に多いのです。また、掲示板で一つ二つ前の方と全く同じ質問をしていかれる方というのも非常に多いのです。

この現象は、私のところだけではなく、ジャンルを問わずにいたるところで見られた事で、始めは親切に回答されていた方でも「いい加減うんざり」するレベルで頻発しておられ、「一つ前ぐらい読め!」や「最低限調べてから来い」なんて言葉尻荒く対応されている様子を見たのも一度や二度どころか、何百度です。

 

 私はと言いますと、それは仕方ない事なんだと考えておりましたので、同じ質問でも回答したところへ誘導したり、同じ内容を答えたりとマイペースにやっておりました。

と申しますのも、「何が分からないか分からない」は誰しもが経験しているからです。

初めてのことでしたら尚更です。

カメラを始めようという方が居られたとして、コンパクトなカメラと一眼レフと何が違うの?カタログやら見てもFってなに?調べてみても被写界深度って何よ?

と次から次へと専門用語が飛び交い、「知っている人向けの情報しかないじゃないか」

と受け取られ初心者向けの解説は一体どうやって捜したものか・・・。

これが普通だと思うのです。

そんな中で、質問できる場に出会えた方の喜びやいかほどか・・・。

偶然であっても、因果関係があっても、そこに辿りつけた事を奇跡的と感じられている方だっているでしょう。

ですから、私は重複質問であっても、投げやりな回答を一度たりともしなかったのです。

 

 今回のタイトルにあります、暗中模索を暗中模索するという事がなんとなくお分かりいただけてきた頃と思います。

暗闇の中にあって、何かを探すのは大変ですが、その捜している何かが何かも分からないとあってはこれは大変です。

やっと手に触れたものがあっても、それが捜しているものなのか、ヒントぐらいにはなる物なのかすら分からないのですから。

 

 何年か前の話になりますが、「学校の勉強の方法が分からない」

という話を受けたことがあります。

これは珍しい話ではないと思います。

その方は試験に悩んでおられたようですが、「勉学についていけずに試験勉強以前に、まずはどうすすめたらよいのかすらわからない」という状態にあったようです。

まさに今回のタイトルですね。

私が提示させて頂いた回答は、まずは「勉強を三つに分け整理しなさい」というものでした。

1.覚えるしかない事

2.考えれば分かる事

3.1・2どちらか判断できない事

 

 これは私自身が身を持って経験した勉強法でした。

私の家系は親族一同声を揃えて言うことには典型的な理系脳家系らしく、「なぜ?」と考え答えを探る癖が私自身にもいつの間にか備わっておりました。

授業中でも「なぜ?」と考えて分からなければ、授業が進む中私はそこで立ち止まって考え続けており、気が付けば授業の後半聞いてなかった・・・というのが日常でした。

覚えるしかない事を「なぜ」と考えることは「学問」としては非常に有意義なことですが、「試験勉強」という目で見た場合には「時間の無駄」です。

一方、考えれば分かる事をすべて暗記していこうとすることもまた時間の無駄です。

あくまでも「試験勉強という目前に差し迫った状況下での話」ですよ。

そんな事があまりに日常でしたので、「先生!覚えるしかない事はちゃんとそうやっておっしゃってください!」

と抗議した記憶があります(笑)

話をもどしまして、

例えば、「1192年(1185年)に源頼朝が開いたのは?」

これを暗記抜きに導くのは大変です。

なぜ鎌倉なの?幕府ってどうしてそう命名されたの?

時間の無駄でしょう?

もう一つ「体積30立方センチの物体を水に沈めた時の浮力は?」

浮力=押しよけた水の重さ(アルキメデスの原理)

これを試験中にいくら考えてもでませんよw

なので、アルキメデスの原理は暗記するしかない事です。

しかし、そこから先はこれを元に考えれば分かる事です。

 

3に関しては、どちらの要素もあるのだという姿勢で臨みます。

本格的に時間を割くのは3だけというわけですね。

その後、その方の勉学がうまくいったのかどうかは、続報を聞かせていただけておらずに分からないままですが、良い方向へのアドバイスとなっていてくださればと願うばかりです。

 

 こんな話のついでに、私自身未だによく分かっていない試験スタイルの一つが「暗記」なのですが・・・。

例えば、会社の製品をプレゼンする際に、製品の仕組みや機能、従来・ライバル製品との差異に関しては熟知しておく必要があります。しかし、それに用いられたパーツの名称や特許の番号や・・・はメモして持っておけば充分ではないでしょうか?

歴史でいえば、時代の移り変わりと背景、その中で起こった事件であったり出された法令であったりという事は理解しておく大切さがわかります。

今後の私たちへの教訓となる事も多いでしょうし、先人たちのご苦労を知り、現在に生きる私たちへと繋がることで、私たち自身を知る事にもなります。

しかし、細かな年号や元号、単語はメモで良くないですか?

と申しますのも、逆の方を非常に良く見るのです。

受験を乗り越え、年号から法令までばっちり答えられるのに

「じゃあどんな背景があってその法令を出すことになったの?」

「それはその後の歴史でどういう影響を及ぼしていくことになるの?」

と聞くと答えられない方・・・。

歴史なら歴史という科目の意義を考えると、これでいいのかな?なんて思ってしまうわけです。

先の例で言いますと、私の世代が試験で鎌倉幕府が開かれた年で1185年と書いたら×でしたよ。

今では1192年と書くと×です。

所詮その程度でしかない暗記の内容を「暗記」して「成績や進路」を左右する因の一つとしてまで重要視し、肝心の意義はおろそかにされてる今の試験のあり方が不思議でならないのです。

 

何をもって「本とせられ候」なのか・・・。

勉学に限らず様々なところで見直さないといけない事が多いのではないでしょうか?

なんとなく惰性的にであったり、良く考えずにであったりで、今後もこのまま要を外していくのであれば色々と心配な部分がございます。

今はまだ、暗中模索を暗中模索している段階であるだけならば良いのですが・・・。